波の下の都を見ることができなかった女 建礼門院 平徳子

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

父は太政大臣、母はその正室。
夫は天皇、子供も天皇。

女には栄華が約束されていました。

しかし、夫を亡くし、父を亡くし―
戦乱の果てに、波の間に母とわが子は沈んでいき―女は全てを失いました。

この悲劇の女性は、平家物語のヒロインとして最後の幕引き役にもなりました。

建礼門院 平徳子 高倉后 安徳母 太政大臣清盛公二女 母 贈左大臣時信女従二位時子
承安元十二二叙従三位 十五 十七● 同二十六為女御 同二二十 為中宮 十六 養和元十一二十五 酊院号 二十五
寿永二七二十五赴西海 元暦三五一 為尼 二十九真如覚 文治元五月二十八四二十九 帰京着吉田今夜御出家 建保元十二十三 御事 五十九

『女院小伝』より

時の人・平清盛の娘として生まれて

建礼門院は平清盛とその正室である時子との間に生まれました。名前は徳子です。
同母兄に平家の総領となった宗盛らがいます。
この頃、清盛は保元の乱・平治の乱で勝利し、じわじわと力をつけている頃でした。

徳子が成長し、婚姻適齢期を迎えた頃、叔母の産んだ高倉天皇が即位します。
徳子が、建春門院に引き続き、天皇家と平家の間の懸け橋となることを期待されたのは当然の流れでした。

承安元年、徳子は後白河天皇・異母兄重盛(清盛の長子)の猶子となり、さらに建春門院の後見を得て、
元服した高倉天皇のもとに、入内しました。

明月の光朗らかにして、白沙は昼の如し

『兵範記』 より

彼女の入内の日の夜は非常に明るい月の夜だったようです。
この月の光は彼女の前途を明るく照らすように思えたことでしょう。

宮中の日々

徳子は7歳ほど高倉天皇よりも年上でした。しかし、なかなか妊娠しませんでした。
その間に葵の前や小督局といった寵姫が現れ、さらに小督局は出産(皇女でした、坊門院と呼ばれることになるこの皇女についてはまた後日)するなど、平家一門はやきもきしたことでしょう。

平家物語の悲恋の結晶 坊門院範子内親王
平家物語を代表する悲恋……というのを一つ決めるのを非常に困難ですが、おそらくその候補の中に、「小督」の逸話は入ってくるでしょう。 寵姫葵の前を亡くした高倉天皇の前に現れた宮中一の美女・小督。 高倉天皇は小督にのめりこみますが、しかし平家...

しかし、徳子は治承二年、待望の第一皇子を産みます。言仁親王と名付けられたこの皇子はわずか3歳で父高倉天皇から天皇の位を譲られ、天皇となります。
後に安徳天皇と呼ばれることになる天皇です。

安徳天皇への譲位は、高倉天皇が後白河法皇に代わって院政を行うための布石でありました。
清盛と後白河法皇の関係はこの頃には悪化しており、必然的に平家とかかわりの深い高倉天皇と後白河法皇の関係も良いものと言えなくなってきていたようです。

高倉天皇は岳父である清盛と連携し、院政を敷くことを試みたようです。
また徳子を自らの遺産の執行人として、様々な所領の相続人に任命しました。

しかし、わずかその2年後、治承五年に高倉天皇は病死してしまいます。

このため、再び清盛は後白河法皇と手を組むことを余儀なくされます。

この時に後白河法皇との関係改善のため、徳子が後白河法皇と結婚!するという仰天案が持ち上がりますが、徳子自身や後白河法皇の大反対で無くなっています。
(後白河法皇のもとには清盛の庶出の娘・御子姫君が入内しますが、この姫君はすぐに亡くなったそうです。)

そして、この年、清盛が熱病で亡くなりました。

相次ぐ夫と父の死に、しかし建礼門院は悲しむ暇もありませんでした。すべては怒涛の勢いで襲ってきます。

 

都落ち

清盛の死後2年もたたないうちに、各地で挙兵した勢力の一つであった木曾義仲が北陸路を制覇、都へ上ります。
その前に平家一門は都を離れ、西国を流浪する日々が始まりました。


建礼門院も、わが子安徳天皇、自身の女房(後に「七条院」と呼ばれることになる坊門殖子、この女性についてはまた後日)が生んだ高倉天皇の第二皇子(後に「後高倉院」と呼ばれることになりますが、このことについてはまた後日)
らも連れて、平家の都落ちに付き従いました。

西国流浪の日々は長く続きませんでした。

清盛の死から5年もたたず、都を離れて2年もたたない、元暦二年三月二十四日、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅びました。

自らの弟や一族、そして母、母の腕の中のわが子が海中に消えていく様を、建礼門院は見届けて―彼女は、生き残りました。

 

大原にて

捕虜となった平家一門とともに京に引き戻された建礼門院は、処刑された同腹の兄宗盛らとは異なり、助命されました。
女性であったからでしょう。(平家一門の男性はわずかな例外を除きことごとく処刑・自害しましたが女性は基本的に生き残っています)

妹が四条家に嫁いだりしていたため、姉妹を頼って生活することもできたでしょうが、彼女は俗世を離れ、出家する道を選びました。
(ちなみにこれは母・時子の指示だったとも言われていますが実際どうだったのでしょう。)

最初は洛北吉田のほうに住んでいましたが、地震などに見舞われ、有名な大原寂光院に隠棲するようになります。

後白河法皇(平家物語では御幸しています、実際はどうだろう?)や、自身の女房であった建礼門院右京太夫(甥の恋人でもありました)が訪ねてくるなどすることもありましたが、基本的には都の人々から忘れ去られたような、静かな生活を送ったようです。

30年ほど仏道にいそしむ生活を送った後、建保元年、亡くなりました。

京の都では安徳天皇の異母弟・後鳥羽天皇が華やかな宮廷文化を築き上げ、鎌倉ではすでに一族を滅亡に追いやった源頼朝ら源氏に代わり、北条氏が力を伸ばしつつある、そんな時代を迎えていました。

 

建礼門院は悲劇のヒロインか?

建礼門院が、どのような女性であったのかは実際のところ、よくわかりません。
ただ、建春門院や母ほどにはバイタリティあふれているとは言えないかな、とは思います。

彼女の人生は、父や母や周りの人にすべて決められ、その通りに歩んできた人生のように思います。
(わずかな抵抗は後白河院の後宮に入ることを拒絶したことくらいでしょうか?)
彼女自身は、良くも悪くも優しい、そして何よりも普通の女性だったのではないでしょうか。
普通の女性が中宮に祭り上げられ、そしてわずかな幸福すらも根こそぎ奪われる、それが戦乱の世の怖さだなとも思います。

全てを失った後、大原で、彼女が何を思って残りの日々を過ごしたのかは分かりません。
無為に過ごしたのか、一心に一門の冥福を祈ったのか、それとも―

すべては歴史の闇の中。

でも、全てを周りに決められて生きてきた彼女が、大原では少しでも自由に、自分の思うままに生きることができたといいな、と思います。


まんがで読む 平家物語 (学研まんが日本の古典)

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