まるで春の夜の夢の如し 修明門院藤原重子

女院

後鳥羽上皇は多くの女人を愛しましたが、おそらく彼が最も愛した、と言えるかもしれないのが、修明門院・藤原重子です。

実は平家の血をひいているこの女性は、後鳥羽上皇の寵愛の元多くの栄華を手にするものの、承久の乱ですべてを奪われることとなります。

そんな修明門院藤原重子についてご紹介します。

修明門院の父は藤原範季、母は平家の平教子(平教盛娘)

修明門院藤重子 後鳥羽后 順徳母 本範子 従二位範季女 母権中納言教盛女従三位平教子 建久九十二七 叙従三位 十七 同廿九 叙従二位 承元元六七 准三宮 廿六 同日院号 承久三七八 為尼 四十四法性覚 同十一廿二 被辞申院号幷年爵封戸諸司例給等 文永元八廿九御事 八十三

引用:『女院小伝』

修明門院藤原重子は、寿永元年(1182)、いわゆる源平合戦のさなかに京にて生まれます。

彼女の父・藤原範季は、藤原氏の中でも摂関家からは外れた傍流の出でしたが(藤原南家の流れを汲んでいました)、姪に承明門院源在子の母である藤原範子、卿二位こと藤原兼子を持つなど、後鳥羽天皇の乳母たちの親族でありました。

範季は、文章得業生からその官途が始まっていることから考えても中流の出の人物ですが、後白河院の側近として奥州藤原氏や源義経、源範頼らと関わるなど、なかなか面白い人物でもあったりします。(そのせいで源頼朝ににらまれたこともあります。)

ちなみに、修明門院は当初、父「範季」にちなんで「範子」という諱だったそうですが、従姉妹で、承明門院の母である藤原範子の存在もあって「重子」と改名したそうです。

修明門院の母・平教子は、平教盛の娘、平清盛の姪でした。もともと「播磨内侍」を名乗り、清盛の娘である盛子(摂関家の近衛基実正室)に仕えていた女官でもありました。

重子の父・範季は卿二位らの後見のような立場であったため、彼女たちが乳母を務めた尊成親王こと、後の後鳥羽天皇を養育していました。

もしかしたら、重子と後鳥羽天皇はそのころから、お互いほのかに恋心を抱いていたのかもしれないですね。

さて、当初は異母兄・安徳天皇の存在もあり皇位継承など望むべくもなかった尊成親王ですが、安徳天皇の都落ちによって、幼いながらに即位を果たします。

範季も、教子も、育てた皇子が皇位を継承したということもあり鼻高々だったでしょう。

しかし、悲劇は容赦なく襲い掛かります。教子の父で重子の外祖父にあたる平教盛は、壇ノ浦の戦いで安徳天皇や二位尼ともども、入水して果てました。

しかし教子自身は女人であったこと、そして後鳥羽天皇との関係性もあり、範季と教子の夫婦は失脚することはありませんでした。

そして年頃になった重子は、両親は元より、従姉妹にあたる卿二位藤原兼子の強力なバックアップの元、女官生活を始めることとなります。

後鳥羽天皇の寵愛を受けて

建久に後鳥羽院。宇治の御幸の時。修明門院そのころ二条の君とてまいり給へりし例をまねばるゝとぞ聞えける。

引用:『増鏡』

重子は、「二条局」という女官名で、建久六年~七年(1195~6)ころから出仕を始めます。

ちなみに「二条」という名前は大臣の娘など、上臈女房が使う名前です。

父範季の官位(極官が従二位・式部権少輔)を思うと少し似つかわしくない感じですが、おそらく後鳥羽天皇の乳母の親族(重子は卿二位の猶子だったとも)ということもあり、優遇されたのでしょうね。

このころの彼女はまだローティーンでしたが、出仕し始めてさほど経たぬうちに後鳥羽天皇の寵愛を得るようになります。

後鳥羽天皇の後宮は、このころ中宮九条任子、源在子などがいましたが、相次いで妊娠していたことも影響したかもしれません。

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また、九条任子も源在子も後鳥羽天皇より年上でしたから、自分よりも若く可愛らしい女性にころっといってしまったのかも。

後鳥羽天皇の従姉妹にあたる坊門局(内大臣坊門信清の娘で、源実朝正室・西八条禅尼こと坊門信子の姉妹)と並んで寵愛を受けるようになった二条局も、さほど間を置かずに妊娠し、建久八年(1197)に、16歳で後鳥羽天皇の第三皇子となる守成親王を産みます。

何となくあけくれて。承元二年にもなりぬ。十二月廿五日二の宮御かうふりしたまふ。修明門院の御はらなり。この御こを院かぎりなくかなしき物に思ひ聞えさせ給へれば。になくきよらをつくしいつくしうもてかしづきたてまつり給ふ事なのめならず。つゐにおなじ四年十■月に御くらゐにつけたてまつり給ふ。

引用:『増鏡』

後鳥羽天皇の重子に対する寵愛はもちろん、雅成親王に対する寵愛も著しいものでした。

源在子の産んだ第一皇子・土御門天皇がまだ幼いにも関わらず、後鳥羽上皇は守成親王を即座に土御門天皇の皇太弟に立ててしまいます。(ちなみに雅成親王の少し前に生まれた、坊門局腹の第二皇子・長仁親王は出家させられています。偏愛がすごい……)

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さらには、本来第一王子・土御門天皇の妻となるはずだった九条立子(のちの東一条院)を、無理やり守成親王の妻とするよう取り計らうなど、後鳥羽上皇はさらに守成親王を盛り立てて行きました。

重子への寵愛ももちろんすさまじいものでした。重子は、土御門天皇の生母である在子を差し置いて、従三位、そして従二位へと叙位されます。(女院号はさすがに在子の後でしたが……)

源在子は土御門天皇以降子を産むことはありませんでしたが、重子は雅成親王、尊快入道親王といった子を産みます。

このうち雅成親王は、源実朝死後、一時は次期将軍とも目されるなどしていました。もしも実現していたらおそらく承久の乱はあそこまで京方にとって悲惨なものにならなかったのかも……。

後宮で並び立つ者がいないほど重子が栄華を極めた様子は、息子である守成親王の即位前にも関わらず、建永二年に准三宮、そして修明門院という女院業を賜るというあり得ないほどの好待遇にも現れています。

彼女の栄光は承元四年(1210)、守成親王が土御門天皇に代わって即位したことで極致に達します。即位した守成親王は八条女院領を継承するなど、兄土御門上皇を差し置いて、後鳥羽天皇の後継者となります。

栄華の中で~修明門院熊野御幸記~

さて、平安末期から鎌倉時代前半にかけて異常に皇族、特に上皇たちの間で流行っていたのがいわゆる「熊野詣(熊野御幸)」でした。

後白河上皇の33回は出色の数ですが、修明門院の夫である後鳥羽上皇もまた、28回の熊野詣(熊野御幸)を成し遂げています。

後鳥羽上皇の影響を受けたのでしょうか、修明門院もまた、何度も熊野詣(熊野御幸)をしています。

修明門院は待賢門院の12回に次ぐ、女院の中では第二位の数になる11回の熊野詣(熊野御幸)を成し遂げました。(ライバル・承明門院はわずか1回です)

熊野詣(熊野御幸)をするには、1カ月近い自由な時間、そして多くの人々、もちろん金品も必要です。一女官だった重子が、それを為せるほどの権力を持つまでになりあがっていたことがよく分かりますね。

彼女が最初に熊野詣(熊野御幸)を成し遂げたのは、息子守成親王が即位を果たした承元四年(1210年)、29歳の時でした。

その時の御幸の記録が、『修明門院熊野御幸記』として残っています。

『修明門院熊野御幸記』の作者は藤原(広橋)頼資で、この時修明門院に付き従って熊野詣を成し遂げました。

この藤原頼資、個人的に熊野信仰に熱心だったようで、なんと20回以上も熊野詣を成し遂げています。この承元四年以外の御幸のことも自身の日記『頼資卿記』に記録を残しました。

承久の乱と落魄の晩年

さて、後鳥羽上皇、そして即位した守成親王―順徳天皇のバックアップもあり都にてわが世の春を満喫していた修明門院ですが、その栄華を断ち切ったのは後鳥羽上皇、そして順徳天皇でした。

承久三年、承久の乱が引き起こされます。そして―すべてが終わった後、修明門院もまた多くのものを失いました。

新院遷御佐渡國花山院少將能氏朝臣、左兵衛佐範經、上北面左衛門大夫康光等、供奉女房二人同國母修明門院、中宮一品、前帝以下、別離御悲歎、

引用:『吾妻鏡』

彼女の愛した順徳天皇はわずかな供とともに佐渡島へ流罪となります。そして夫・後鳥羽上皇もまた隠岐島へと流罪になります。

修明門院の次男・雅成親王も備前へ流罪となり、また順徳天皇の皇子・仲恭天皇は廃され、母方の九条家に引き取られます。

後鳥羽上皇は流罪に先立って、都にて坊門局との第二皇子長仁親王、出家して仁和寺御室・道助入道親王となっていた息子の手で出家を果たします。修明門院もまた、夫とともに出家を果たしました。

修明門院は女院という立場もあって、隠岐島へとついていくことはできません。(流罪先にまでついていくことが出来るのは、身分低い女性でした。後鳥羽上皇の場合、寵姫亀菊こと伊賀局らがついていきました。)

亀菊  承久の乱の遠因となった美女
鎌倉時代前期、後鳥羽上皇は幾人かの白拍子を寵愛していました。 白拍子というのは、男装して踊る舞姫で、望まれれば夜を共にする、遊女に近い女性でした。平家物語の祇王や仏御前、源義経の妻静御前なども白拍子です。 滝、石、舞女姫法師とい...

せめて、ともに出家することだけが、彼女が後鳥羽上皇のためにできた最後のことだったのかもしれません。

さらに彼女は出家後、女院としての給金をすべて返上しています。それが承久の乱に対して、彼女なりの、誠意だったのかもしれません。

修明門院は順徳天皇の息子たち(自身の孫ですね)を庇護しながら、後鳥羽上皇の母・七条院の庇護などをうけつつ細々と暮らしていきます。一条万里小路にあった御所・四辻殿にて、彼女は静かに生活を送っていました。

かつて国母として栄華を誇った女性であるにも関わらず、強盗に押入れられて衣服などを盗まれることもあるなど、辛酸をなめ続けます。

しかしそんなある日、思いもよらぬことが起こります。

修明門院の孫・仲恭天皇廃位後、後鳥羽天皇の兄・守貞親王の系統(後堀河天皇―四条天皇)が皇位を継承していたのですが、四条天皇が後継ぎを残すことなく亡くなってしまいます。

次代の天皇と目されたのが、修明門院の孫にあたる順徳天皇皇子・忠成王、そしてライバル・承明門院の孫にあたる土御門天皇皇子・邦仁王でした。

朝廷側は忠成王の即位を目論み、忠成王に合わせて即位式の準備なども進めていたようです。修明門院も孫の即位をかなり期待していたようです。

佐渡院の宮たちにやなと聞えければ。修明門院にも御心ときめきして。内++その御ようゐなとし給ふ。承明門院ももしやなどさま++御いのりし給ふ。

あづまのつかひ宮古に入よし聞えける日は。両女院より白川に人を立て。いづかたへかまいると見せられけるぞ。ことはりに。けにいま見ゆへき事なれどものゝ心元なきはさおほゆるわざそかしと。れいのくちすげみてほゝゑむ。

日くらしまたれて城介よしかけといふもの三条かはらにうちいでゝ。承明門院のおはしますなる院はいづくぞと。

引用:『増鏡』

しかし、鎌倉幕府からすればまだ佐渡島にいる順徳天皇の復権へとつながりかねない忠成王の即位を許すわけがありませんでした。結局鎌倉幕府の主導によって就けられた次代の天皇は邦仁王、彼は後に後嵯峨院と諡されることとなります。

後嵯峨天皇即位の年、順徳天皇は遠い佐渡の地にて、母に先立って死去します。一説には自身の子孫の皇位継承が絶望的になったことから、絶食して果てたとも。母・修明門院の悲しみはいかほどだったでしょう。

とはいえど、修明門院は忠成王や、善統親王といった順徳天皇の皇子たちを手元で育て、さらに七条院の遺領を継承するなど、細々とではありますが、穏やかに暮らしたようです。

修明門院は、その波乱に満ちた生涯を、文永元年に閉じました。京においては、この時すでに後嵯峨天皇、そして後深草天皇と来て、亀山天皇が即位していました。

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