安徳天皇は生き延びたのか?安徳天皇にまつわる伝説

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に、幼い安徳天皇が出てきましたね。

安徳天皇の悲劇と言えば、平家物語のクライマックスを飾る名場面でもありますが……そんな安徳天皇については、「清盛の孫」という以外にはあまり知られていないのではないでしょうか。

安徳天皇について、いろいろと調べてみました。

安徳天皇は誰の子?安徳天皇の父と母

安徳天皇は、高倉天皇と高倉天皇の中宮である平清盛の娘・平徳子との間に生まれました。

安徳天皇が初めての平家を母に持つ天皇!安徳天皇の存在こそが平家の栄華の証!のように思う人もいるかもしれません。

しかし、そもそも安徳天皇の父・高倉天皇自体が平家(清盛とは別系統の「堂上平家」ですが……)出身で、清盛の義妹である平滋子所生のため、実をいうと平家系の天皇としては2人目になるわけですね。

高倉天皇は清盛の遠縁で、義理の甥となるわけです。

母の平徳子についてはあまり多くを述べる必要もないでしょう。彼女の父は清盛で、母は清盛の継室・平時子(高倉天皇の母・滋子の異母姉)です。高倉天皇より6歳年上の従姉でした。

ただ安徳天皇については、聞くに堪えないような風聞も残されています。

実は、安徳天皇は母徳子が同母兄宗盛(そもそも宗盛は兄ではなく時子が引き取ってきた笠売りの子であるとの噂ともセットになったりもします)と通じて生まれた子なのだとか。

これは、徳子が安徳天皇以外に子が生まれなかったことなどから、高倉天皇と徳子が不仲だったのでは?という邪推も入って生まれたものかもしれません。

ただ徳子の女房による『建礼門院右京大夫集』などの記録や、徳子が高倉天皇の遺言で遺産執行者に任命されていたことなどを考えると、少なくとも徳子は高倉天皇に一定の信頼をおかれていたことは事実でしょう。

さすがに安徳天皇が高倉天皇の子ではないというのは荒唐無稽なように思われます。

波の下の都を見ることができなかった女 建礼門院 平徳子
父は太政大臣、母はその正室。夫は天皇、子供も天皇。 女には栄華が約束されていました。 しかし、夫を亡くし、父を亡くし―戦乱の果てに、波の間に母とわが子は沈んでいき―女は全てを失いました。 この悲劇の女性は、平...

安徳天皇の性別疑惑

其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覺ユ。

引用:『国史大系』

安徳天皇には、実は「性別が女性だったのでは?」という疑惑があります。

たとえば、同時代の天台座主・慈円(九条兼実の弟)が書いた『愚管抄』などには「安徳天皇は厳島神社の神、つまり竜王の娘が化生した存在だから海に沈んでしまったのだ」と語っています。

また、天皇家の菩提寺である泉涌寺に伝わる肖像画も、袈裟を身にまとい振り分け髪の姿で描かれており、まるで少女のようです。

それらのことから、「実は女性なのでは?」とも思われているようです。

安徳天皇の即位は、清盛からすれば後白河法皇から権力を奪うためには必須(安徳天皇の父・高倉天皇を上皇にして院政を行わせる必要がある)ではありました。

とはいえど、高倉天皇には当時、女房坊門殖子との間に守貞親王(第二皇子、治承三年生まれ)がいました。

坊門殖子は、清盛の義理の孫(清盛の娘が坊門殖子の父に嫁いでいる)でもあり、平家の影響下の女性と言えますから、わざわざ徳子所生の女児を無理に立てる必要もないような気がします。

あくまでも後世の伝承に過ぎないといってよいでしょう。

安徳天皇と三種の神器

安徳天皇は平家ともども都を落ち延び、大宰府、屋島、壇之浦と西国を流浪します。その際に、天皇の権威の象徴でもある「三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣【ヤマトタケルノミコト以後「草薙剣」とも】・八尺瓊勾玉)」を持ったままでした。

平家からすれば、平家の立てた天皇の正統性を強調するためにも必至の策だったのでしょう。(しかし、この流浪の最中に、後白河法皇は三種の神器なしで後鳥羽天皇【安徳天皇の異母弟】を即位させています。)

のちに三種の神器は、安徳天皇の祖母・平時子によって海中に沈められることになります。

八尺瓊勾玉と八咫鏡は波間に漂っているのを源氏軍によって引き上げられますが、草薙剣は海中に沈められたままと伝わります。

安徳天皇の異母弟にあたる後鳥羽天皇にとって「草薙剣」の不在はかなり重くのしかかる事態となったようで、たびたび西国へ探索させに使節をだしたりしています。

彼は最終的に後白河法皇が伊勢神宮に奉納した剣を「神剣」として扱うこととしましたが、その後も「草薙剣」を探させています。

「草薙剣」に関するコンプレックスは、後鳥羽天皇がのちに承久の乱を引き起こした遠因の一つとも言われています。

安徳天皇が草薙剣とともに沈んだことに関しては、80代目の天皇(正確には81代目と言われていますが)である安徳天皇は実はヤマタノオロチ(8つの首を持つ)の生まれ変わりだったから、ヤマタノオロチの尾から生まれた草薙剣もろとも8歳の時に海にかえっていったのだ、という伝承も残されています。

安徳天皇の死因は水死

安徳天皇は壇ノ浦の戦いで平家の敗北が決定的となったときに、祖母にあたる二位尼・平時子(もしくは母の女房・按察使局伊勢)に抱きかかえられて入水したといいます。

とはいえど安徳天皇自身は自分がどのようになるのかは全く分かっていませんでした。安徳天皇はこの時まだ6歳だったのです……。

抱きかかえられた時に「どこに行こうとするのか」と聞いた安徳天皇は、自分の命が終わるとはまったく思っていなかったでしょう。

「海の底にも都はございますぞ」と言われるやいなや、安徳天皇は壇ノ浦の急流に身を投じることとなります。

ちなみに平家は安徳天皇を道連れにしましたが、源氏方のほうは安徳天皇を殺すつもりはまったくなかったようです。(平家の血をひいているとはいえ、天皇家の人間を害することはさすがに恐れ多くて考えてもいなかったようです。)

都に戻ったとしても、おそらく天皇に戻ることはできず(すでに後鳥羽天皇が即位していますから)上皇としてうら寂しい生活だったかもしれませんが、それでも生きていたら……とも思われます。

安徳天皇の遺体は見つかっていない

二位尼平時子(一説には建礼門院女房・按察使局伊勢)に抱えられ入水した安徳天皇の遺体はついぞ見つかることはありませんでした。

安徳天皇が没した壇ノ浦の近くに「赤間神宮」があります。この赤間神宮は、もともと安徳天皇の御影堂だった阿弥陀寺が、明治時代に神社になったものです。

この赤間神宮内に「擬陵」として、「安徳天皇阿弥陀寺陵」が比定されています。

安徳天皇に子孫・末裔はいない

安徳天皇は亡くなったときにはわずか6歳(数え年8歳)でした。そのため、妻や子、末裔は存在しません。

もしも長じていたとしたらどうなっていたのでしょうね?徳子の兄・宗盛の娘(この時すでに1人娘は平通盛に嫁いでいましたが)や平重衡、平知盛の娘がいたとしたら、安徳天皇の妻となっていたのかもしれません。

安徳天皇は生き延びたのか?~安徳天皇生存伝説~

平家には落人伝説が多く残されていますが、平家の落人ともども、安徳天皇も落ち延びたとする説があります。

それは全国各地にわたり、陸奥国(青森県)、摂津国野間郷(大阪府)、因幡・伯耆(鳥取県)、阿波国祖谷渓(徳島県)、土佐国(高知県)、対馬(長崎県)、肥前国(佐賀県)、薩摩国硫黄島・大隅国(鹿児島県)などがあります。

また、福岡県那珂川市には「安徳」という地名が残されています。(ただこの地名は大宰府に落ち延びた安徳天皇が行宮としたという伝承があるために生まれたものだそうです。)

もしも生き延びたとしたら、安徳天皇は子孫や末裔を残したかもしれませんね。

ちなみに、対馬に落ち延びたとする説によると、安徳天皇は島津氏の娘(薩摩国の地頭・島津忠久の娘だとしたら頼朝の孫娘の可能性もあり、面白いですね)と結婚し、対馬宗氏初代当主・宗重尚を儲けたといいます。

ちなみに宗重尚は安徳天皇の子でなかったとしても、清盛の孫である平知宗(清盛の四男・平知盛の子)の子であるとする説があるため、どちらにしても平家の落人との関連性が高いようです。

 

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