平宗盛の妻と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

平清盛亡き後、平家の棟梁となったのが平宗盛です。

宗盛の父は言わずと知れた平清盛、母は二位尼平時子ですが、その息子である宗盛はどうにも武将としての才覚があったかというと……?な人物です。

ただ彼はもともと清盛の後継者ではなく、長兄重盛が早世したために棟梁にならざるをえなかったり、といろいろと不運というか間が悪かったようで……。

武将としてはあまり評価の高くない平宗盛ですが、しかし源氏方の手に落ちた後に現地の子供たちと遊んだり、壇ノ浦の戦いでは参戦していた息子を心配していたりと、心優しい人物ではあったようです。

そんな平宗盛の妻と子たちについて調べてみました。

正室:平清子

宗盛の母、平時子の異母妹で、建春門院平滋子(後白河院妃、高倉天皇母)の同母妹。宗盛から見ると1歳年上の叔母にあたる女性でした。

清子は宗盛との結婚生活の傍ら、姉である滋子の子、高倉天皇に乳母として仕え、従三位まで登ります。女房名は「中納言典侍」でした。

彼女は承安元年(1171)に宗盛の嫡男・清宗を出産します。その後治承二年(1178)に再び妊娠しますが、妊娠中に亡くなりました。

彼女の死は宗盛に深い悲しみをもたらし、右大将の官位を辞任するほどでした。

継室?側室?:副将(能宗)の母

この子が母はこれを生むとて産をば平らかにしたりしかどもやがて臥し悩みしが七日といふにはかなくなりてあるぞとよ `この後いかなる人の腹に君達を設け給ふともこれをば思し召し捨てずしてわらはが形見に御覧ぜよ `差し放つて乳母などの許へも遣はすな

引用:『平家物語』

詳細は不明です。宗盛の次男・副将丸こと平能宗を出産後にすぐ亡くなっています。

彼女はその際に、「あなたが今後、他の女性に子供を産ませたとしてもこの子を忘れないで、私の形見だと思って、乳母たちに育てさせないであなたが育ててね。」といい、宗盛はその要望に従ったと伝わります。

平清子といい、宗盛はかなり奥さんを大事にする女性だったようですね。

継室?:平教盛娘

清盛の異母弟である門脇中納言・平教盛の娘。宗盛から見ると従姉妹にあたるわけですね。(こうしてみると宗盛の結婚は平家一族内で行われていますね……。)

彼女の父の教盛は壇ノ浦の戦いで入水して亡くなっています。

宗盛の娘は教盛の息子である通盛に嫁いでいますが、その結婚はこの平教盛娘の縁であったのかもしれませんね。

夫死後の彼女の動向は分かりませんが、彼女の姉妹は後鳥羽天皇の寵姫(順徳天皇母、修明門院)の母親でそれなりに栄えたりしていますから、姉妹の援助を受けて生活していたかもしれませんね。

平宗盛の子と子孫

平宗盛の子のうち、男子たちはすべて処刑され、根絶やしにされています。

宗盛には娘が一人いたことが分かっていますが、この娘も平家内で結婚しているため、一の谷の戦いで夫を失っています。ただ宗盛娘には子供がいたかもしれず、そうだとすると宗盛の子孫は続いた可能性があります。

ここでは、平宗盛の子たちについて紹介していきます。

平宗盛の嫡男:平清宗

右衛門督 `今は憂き世に思ひ置く事なし `さらば疾う斬れ `とて首を延べてぞ討たせられける `今度は堀弥太郎親経斬つてけり

引用:『平家物語』

宗盛と正室・清子の間に生まれた嫡男です。平家政権下では順調に昇進し、右衛門督の官位にありました。

壇ノ浦の戦い時は15歳で、父ともども入水するも、親子まとめて海から引き上げられます。

同年中に近江国で斬首され、亡くなりました。

清宗は平頼盛(清盛の異母弟で、頼朝の助命嘆願をした池禅尼の子であったため壇ノ浦の戦い後も生き延び、貴族として家計が続いた)の娘と結婚していました。

ただ結婚生活は2年ほどですし、この間平家は瀬戸内を転々としていましたから、おそらく子は生まれていないでしょう。(少なくとも男子がいたとしたら、処刑されているでしょう。)

平宗盛の次男:平能宗(副将丸)

ややあつて重房涙を押さへて申しけるは `今はいかにも叶はせ給ふべからず `とて急ぎ乳母の懐の内より若君引き出だし参らせ腰の刀にて押し伏せてつひに首をぞ馘いてける

引用:『平家物語』

宗盛の次男・能宗はまだ幼く、戦いには参加していませんでした。

しかし、頼朝自身、平家の男子を生かしておくことの危険性を重々に承知していたのでしょう。(自分自身が清盛に生かされたわけですから)

能宗は河越重房によって斬首されたとも、柴漬というおもりをつけて水底に沈めるという方法で(くしくも頼朝長男・千鶴丸がこの方法で殺されたとも言いますね)処刑されたとも伝わります。このとき8歳とも、6歳とも伝わります。

当然ながら、能宗に子供はいませんでした。

平宗盛の三男:某

名前、詳細ともに不明。父や兄ともども処刑されました。次男能宗の年齢を考えると、幼児であったことは間違いないでしょう。

平宗盛の四男:某

名前、詳細ともに不明。父や兄ともども処刑されました。次男能宗の年齢や、兄にあたる三男の存在を考えると相当幼い、下手したら赤子とさほど変わらないような年齢であったと思われます。

平宗盛の娘:平通盛正室(平通衡母?)

平宗盛には、宗盛の継室・平教盛娘の兄弟である平通盛に嫁いだ娘がいます。

平通盛といえば、『平家物語』などでは小宰相という美女を妻としていたことで有名ですが、ひそかに宗盛の娘とも結婚していたんですね。

『平家物語』ではこの宗盛の娘はかなり幼かった、とあるので、子供を産んだかどうかは定かではないのですが……。

預之亦北條殿、任關東仰、屋嶋前内府息童二人、越前三位通盛卿息一人、被捜出之於遍照寺奥、大覺寺北、菖蒲澤、虜權亮三位中將惟盛卿嫡男〈字六代、〉令乗輿、被向野地之處、

引用:『吾妻鏡』

とりあえず、通盛には息子が一人(母親が分からない)いたことが判明しています。

この息子は源氏方の手に落ちているので、処刑された可能性もありますが……。清盛のひ孫にあたる六代などはこの時生き延びていますから、この息子も助命されているかもしれません。

また、通盛には「通衡」なる息子がいたともいいます。

この通衡は出家したため、壇ノ浦後も生き延びたようですが、もしかしたら宗盛の娘はこの通衡の母親だったかもしれませんね。そうだとしたら、通衡は宗盛の孫ということになります。

平宗盛の娘が、父や夫亡きあと、どのように生きたのかは分かりません。

ただ、夫通盛の姉妹や、父宗盛の姉妹にあたる女性たちは、京で公家の妻や女官として生き延びています。

もしかしたら彼女も、ひそかに再婚したり、出仕したりしているかもしれませんね。そうだとすると、宗盛には知られていない子孫もいるのかもしれません。

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