明智光秀と土佐・長宗我部氏

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

 

明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?
それは日本史における最大の謎の一つです。

母を殺されたから、信長に虐げられていたから、などと様々な理由が古今東西唱えられてきました。

近年、有力になってきているのが「土佐の長宗我部氏との関係」が原因ではないか?というものです。

どういうことなのか、調べてみました。

明智光秀と長宗我部氏(長宗我部元親・信親)の関係

長宗我部元親の正室は、永禄6年(1563年)に幕府の仲介で嫁いできた石谷光政の娘です。この女性は、もともと美濃国の出身で、室町幕府奉公衆の家柄でした。そのため、彼女の父は、もともと足利義輝(室町幕府第13代将軍)に仕えていました。しかし、義輝は道半ばにして横死、父は娘の元親正室を頼って土佐に下りました。

一方、父の後継ぎである義兄・頼辰は、織田信長の配下・明智光秀の家臣となったのです。また、光政の妻で元親正室の母である女性は、もともと別の男性に嫁いでいました。その結婚の時に生まれた斎藤利三もまた、明智光秀の家臣となっていました。つまり、元親正室の2人の兄はいずれも明智光秀の家臣となっていたわけですね。

ここに、明智氏と長宗我部氏の関係が始まりました。のちに、頼辰の娘も、従兄弟にあたる長宗我部信親(長宗我部元親と元親正室の間の嫡男)に嫁ぐこととなり、さらに明智氏と長宗我部氏の関係は強まることとなります。

長宗我部氏と織田信長

織田信長の重臣である光秀と、長宗我部氏の関係もあってか、長宗我部氏と信長も当初は良好な関係を築いていました。
じわじわと土佐で勢力を広げていた元親は、とうとう土佐一条氏を退け、土佐国を統一します。また、自身の嫡男・信親の烏帽子親までも信長にやってもらいました。

さらに、信長との良好な関係に乗じて、「四国切り取りの許可」つまり、四国を自由にしてもいいよ!という許可まで取り付けます。この頃の信長は、石山本願寺や丹波、そして武田家など、各地の勢力相手にかなりてこずっていたので、四国までは頭になかったのでしょう。

しかし、畿内が落ち着き、武田家も滅び、後は毛利か上杉か……というところまできて、信長はふと、四国のことを思い出します。信長は以前出した約束を反故にしたのです。元親からすれば寝耳に水の出来事でした。この頃信長のもとには阿波の三好氏(三好長慶の一族)や、伊予の河野氏、西園寺氏などが、元親の勢力拡大を恐れてたびたび書状を出していたのです。

結局、信長と元親の友好関係は、天正九年(1581)の夏ごろには終結したといわれています。そして信長は、とうとう重い腰を上げました。天正十年(1582)5月、彼は自身の三男・信孝を総大将に、副将に丹羽長秀らを任じて「四国攻め」の指示を出したのです。

……しかし、この年の6月2日、四国への出航を予定していたまさにその日、「本能寺の変」が起こることになります。

明智家滅亡後の長宗我部氏と明智家

明智光秀の「三日天下」が終わり、光秀が無残な死を遂げた後―光秀と運命を共にした斎藤利三の娘が、土佐に下ります。
彼女の名前は「ふく」。のちに「春日局」の名前で知られることになる女性です。

長宗我部氏は明智家滅亡後に、その家臣などを引き取ったようです。(春日局は元親正室の姪でもあります。)

高知県には明智の落人の伝説が残されている場所があります。例えば明智左馬之助こと明智光春が実は落ち延びた……なんて伝説も残されていたりします。

真偽は分かりませんが、そのような伝承が伝えられるほどには、明智家ゆかりの人々は土佐国に集まってきていたのだと思います。

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