比企能員の妻と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

鎌倉幕府所代将軍・源頼朝の乳母の甥で養子であった比企能員。2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、佐藤二朗さんが演じることでも話題を集めています。

そんな比企能員ですが、実は出身国すら定かではなく、父母の名前もよく分かっていない謎の多い人物でもあります。そんな比企能員は源頼家の乳母父であり、そして頼家の妾の父であったことから北条氏と対立、非業の運命をたどることになるのですが……。

ここでは、そんな比企能員の妻と子、子孫について調べてみました。

比企能員の妻:渋河兼忠の娘

比企能員は頼朝の乳母であった比企尼の養子ですが、比企尼の娘たちと結婚して婿養子になったわけではないようですね。(比企尼の長女は安達盛長、侍女は河越重頼、三女は伊東祐清、のちに平賀義信に嫁いでいます。)

比企能員が結婚したのは渋河兼忠という人物の娘です。渋河兼忠は上野国渋河の御家人であったことから、「渋河」と名乗っていたようですね。渋河兼忠は渋河刑部兼忠と名乗り、孫(義理の孫?)である一幡(頼家と比企能員娘若狭局の子)の御所の郎党となっていました。

渋河兼忠娘は夫の能員ともども、頼家の乳母となりました。(ちなみに義理の姉妹である比企尼の次女河越重頼室、三女伊東祐清・平賀義信室も同様に乳母となっていたようです。比企尼の影響力の大きさがよく分かりますね!)

この場合の乳母は、実際にお乳をやる乳母と言うよりは、教育係的な意味合いが強い乳母だと思われます。頼家にとっても彼女は実母政子と同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に敬愛すべき存在だったのではないでしょうか。

彼女の所生の子が何人いたかは分かりません。ただ、比企宗員、比企時員らは彼女所生の子ではないかと言われています。また頼家の妻となった若狭局も、彼女の娘の可能性が高そうです。

渋河兼忠娘の死がいつのことかはわかりません。『吾妻鏡』によると、比企能員の変では、比企能員の妻妾は助命されたと伝わりますので、比企能員の変で比企能員の館が焼き討ちにされたときには生き延びた可能性も高いでしょう。

しかし比企能員の変で、渋河兼忠娘は多くのものを失いました。父渋河兼忠はひ孫(義理の可能性も)・一幡の御所を守る郎党であったため、打ち寄せる北条氏の軍に討ち取られてしまいました。夫はもちろん、娘、息子たちも多くはその命を落としました。

もしも渋河兼忠娘が比企能員の変を生き延びていたとしたら、父も夫も子も孫もいなくなった中、どのように生きたのでしょうか。その心情ははかり知れません。

比企能員の末子だと伝わる能本は、比企能員の屋敷跡に法華堂(のちの妙本寺)を建てていますが、この寺は比企能員の変で死亡した能員夫妻と比企一族の菩提を弔うものだと言われています。そうだとすると、渋河兼忠娘は父、息子、娘ともども孫・一幡の屋敷の中で亡くなった可能性も否定できませんね。

比企能員の妻?:ミセヤノ大夫行時の娘

ヒキハ其郡ニ父ノ党トテ。ミセヤノ大夫行時ト云者ノムスメヲ妻ニシテ。一万御前ガ母ヲバマウケタル也。ソノ行時ハ又児玉党ヲ婿ニシタルナリ。

引用:『愚管抄』

『愚管抄』において「一万(一幡)御前の母【若狭局】の母」として名前が出てくる女性。

「ミセヤノ大夫行時」なる者は比企能員の郎党の1人だったそうです。

一説には上野・多野郡片山郷のあたり、もしくは武蔵国新座郡片山郷に勢力を持っていたと考えられる、片山行時なる武士では?と言われています。

この行時は、秩父重綱の養子となった児玉党の武士・児玉行重の三男で、片山与二郎を称したそうです。

ちなみに、この「ミセヤノ大夫行時」の別の娘は武蔵七党・児玉党の武士の妻になっていたそうですから、児玉党との関連性を考えると「ミセヤノ太夫行時」=片山行時でもおかしくはなさそうですね。

比企能員の妾

『吾妻鏡』によると、比企能員の変で比企能員やその一族は滅ぼされましたが、比企能員の末子能本(後に出家して「日学妙本」と名乗ったと伝わる)と、比企能員の妻妾らは助命されたとのことです。

そのためおそらく、比企能員には妻・渋河兼忠娘以外にも妾(側室)がいた可能性が高いのですが……出自はもちろん、名前、人数、年齢すべて分かりません。

比企能員の嫡男:比企余一兵衛尉

廷尉嫡男餘一兵衛尉假姿於女人。雖遁出戰塲。於路次。爲景廉被梟首。

引用:『吾妻鏡』

比企能員の嫡男。嫡男だと考えると、母は渋河兼忠娘の可能性が高いでしょうか?

彼は比企能員の変で、頼家嫡男・一幡の館が焼け落ちる中なんとか生き延びます。彼は女装して北条氏の包囲網を逃れようとしましたが、とらえられ斬首されたと伝わります。

比企能員の息子:比企三郎宗員

渋河兼忠娘を母とすると考えられています。父母、また兄弟や姉妹の若狭局同様源頼家の側近でした。

頼家が13人の合議制に反発して任命した取次・狼藉不問の特権を持つ5人の1人に選ばれています。比企能員の変で、北条義時らによって討伐され、燃え盛る屋敷の中討ち死にしたと言われています。

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比企能員の息子:比企弥四郎時員

渋河兼忠娘を母とすると考えられています。両親、また兄弟姉妹同様頼家の側近で、兄宗員ともども、取次・狼藉不問の特権を持つ5人の1人に任命されています。比企能員の変で北条義時らによって討伐されました。

比企時員の妻は比企能員の変を生き延びますが、その時彼女は時員の息子を身籠っていました。彼女は和田氏の管理下で、息子を産みます。こうして生まれた比企時員の息子・比企員茂は子孫を残し、比企員長、比企左馬允満長と代々続いたようです。

比企員茂は順徳天皇の北面の武士となりました。員長は竹御所(父員茂の従姉妹の可能性がある頼家の娘)の縁故で、比企吉見の領地を得たと伝わります。

比企能員の息子:五郎

比企能員の五男。末子で六男の能本の年齢を考えると、彼はかなり若い少年だった可能性が高いように思われます。彼は比企能員の変で比企一族ともどもその命を終えました。

比企能員の息子:比企大学三郎能本(日学妙本)/圓顕(伯耆法印)とも

『吾妻鏡』では、比企能員の2歳になる息子が助命され、母親ともども安房国に流されたと伝わります。この息子が比企能員の六男・比企能本だと言われています。

能本はのちに鎌倉に帰って出家し、「圓顕」を名乗り、京へ上って真言宗を学びました。その後日蓮の門下となり、「日学妙本」の法名を名乗るようになります。

彼は比企氏の館跡に妙本寺を建てました。妙本寺で、彼は比企一族や竹御所の菩提を弔っています。

比企能員の息子?:仙覚(律師)

比企能員の死後、比企能員の妻の一人が常陸国で産んだ子だと伝わります。幼少期から聡明で、万葉集の研究にまい進したとの伝承が残っています。

比企能員の猶子:河原田次郎

比企能員の猶子。一幡の住んでいた小御所を守る郎党の一人でしたが、比企能員の変で亡くなりました。

比企能員の娘:若狭局

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比企能員の長女と伝わります。母は父の正室:渋河兼忠娘、もしくは「ミセヤノ大夫行時の娘」と考えられます。彼女は鎌倉幕府2代目将軍・源頼家の妻(妾とも正室とも)として、頼家の事実上の嫡男・一幡を産みました。

また、頼家唯一の娘・竹御所(頼家の子女の中で唯一北条氏による粛清を免れました)を産んだとも言われています。

彼女は比企能員の変で、息子一幡ともども焼死したと伝わります。娘・竹御所は源頼朝最後の直系子孫として御家人の尊崇を集め、後に四代目将軍藤原(九条)頼経に嫁ぎます。しかし難産がもとで産んだ息子ともども亡くなり、頼朝の血を残すことはできませんでした。

比企能員の娘:笠原十郎左衛門尉親景室

比企能員の娘は武蔵七党・野与党(武蔵国埼玉郡野与庄に勢力を持っていた武士団)の笠原親景に嫁いでいました。夫の笠原親景は、比企能員の変で討たれ、亡くなっています。

比企能員の娘:中山五郎為重室

比企能員の娘の一人は、坂東八平氏の一つ・秩父党の中山為重に嫁いでいました。夫の中山為重は、比企一族ともども、比企能員の変で亡くなっています。

比企能員の娘:糟屋有季室

夫の糟屋有季は、相模国大住郡糟屋庄に勢力を持つ武士でした。過去には宇治川の戦いや、奥州合戦、梶原景時の変などで活躍するなど勇猛な武将でした。

そのため、比企能員の変でも北条氏にその武功を惜しまれ、投降するように呼びかけられるも拒否、比企一族と運命を共にして討ち死にしました。

糟屋有季の娘は、公家の一条高能(頼朝の甥)の側室となっていました。

有季の子息たち(糟屋有久、有長、久季)は姉妹である一条高能側室を頼って京へ上り、のちに承久の乱に京方として従軍、討ち死にしたと伝わります。もしかしたら彼らは比企能員の孫(比企能員娘の所生)だったかもしれませんね。

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比企能員の娘:讃岐局

比企能員の娘。比企能員の乱で一族ともどもで死亡したと伝わります。一説には竹御所の母親とも。

姉の若狭局と混同されているのか、姉妹で頼家の妻になったのか?詳細は不明です。

若狭局は改名しているようですから、(『吾妻鏡』にて「元號若狭局」つまり、「元は若狭局と称した」と記載有り)若狭局の改名後の名前なのかもしれません。

後年(比企能員の変の約60年後の文応元年)に、北条政村の娘が比企能員の娘・讃岐局の怨霊に取り憑かれたという伝承が残っています。その際の讃岐局の姿はとぐろをまいた大蛇で、彼女は「火炎のごとき苦しみ」を語ったといいます。

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