振姫 会津藩を牛耳った家康の三女

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

家康には5人の娘がいますが、そのうち2人(4女・5女)は嫁ぐことなく幼くして亡くなっています。

家康の成長した3人の娘たちはいずれも政略結婚の駒となり、家康と有力大名家を結び付ける役目を果たしました。

今回紹介するのは、家康の三女・振姫です。

苛烈な性格をうかがわせるエピソード満載の長姉・亀姫や、毒饅頭の噂の残る次姉・督姫に比べるとあまりエピソードが残されていない彼女です。

が、父に頼んで重臣を死罪にするなど、姉たちに負けないほどには強い女性だったようです。

やや影が薄めの家康の三女・振姫はどのような生涯を送ったのでしょうか。まとめてみました。

武田氏ゆかりの家康三女・振姫

徳川家康は武田氏滅亡前後に、武田氏ゆかりの女性を多く側室に入れたことで知られています。

振姫の母親は、側室・お竹の方(良雲院)もしくは家康五男・武田信吉の母でもある下山殿ではないか?と言われていますが、この二人はいずれも武田氏家臣の娘でした。

ちなみにお竹、下山殿については「実は信玄の娘」などとも言われていますが……。

信玄の娘たち6人は、すでにこの当時松姫(織田信忠婚約者)以外、結婚していたことを考えるならば、未婚の娘がいた可能性は低いように思われます。

ちなみに家康は未婚であった松姫を側室!にしようとしたともいいます(お竹、下山殿が側室に入ったのは彼女の代理とも)が、さすがに信長の義理の娘になりかけた女性を側室に入れようとしたというのは??

どうなんでしょうね……。それほどまでに家康の武田狂いはすさまじかったのかもしれません。

いずれにせよ、振姫は天正八年(1580)、武田氏滅亡前に武田ゆかりの女性と家康の間に生まれた娘のようです。(もしも下山殿が母親だとしたら、武田氏滅亡後の天正10年(1582)以降の生まれの可能性も高いです)

彼女が幼いうちに武田氏は亡び、また織田信長も横死し、天下は豊臣秀吉のものへとなっていきました。

振姫と蒲生秀行の結婚

振姫は姉・亀姫や督姫のように、政略結婚に身を投じることとなります。

彼女の最初の結婚は、豊臣秀吉によって取り決められました。

結婚相手は蒲生秀行、振姫の3歳年下で、織田家の有力家臣で豊臣政権下でも重臣として会津藩主となった蒲生氏郷と、織田信長の娘・冬姫(相応院)との間に生まれたまさに名門の嫡子でした。

振姫と秀行は文禄四年(1595)に婚約、慶長元年(1596)に祝言、慶長三年(1598)に輿入れが行われたといいます。

婚約から実際の結婚までに結構年月がかかっていますが、それは当時の蒲生家の混乱が影響したのかもしれません。

振姫と秀行の婚約前後に、秀行は父・氏郷を失い、その後家臣の統制がうまくいかず蒲生騒動なるお家騒動まで起こってしまったのです。

結果、会津藩91万石の藩主から、宇都宮藩12万石の藩主へと大幅減俸を食らってしまいました。

振姫も、はらはらしながら婚約者(夫)の家中の様子を見守っていたのではないでしょうか。

結婚前後はなかなか波乱があったようですが、秀行は宇都宮藩主として宇都宮の街の整備を進めるなど、精力的に活動したようです。

また関ケ原の戦いでは、妻・振姫の縁もあり東軍として行動、その軍功で父ゆかりの会津藩60万石の藩主として返り咲きました。

そして、振姫と秀行の間には2男1女(蒲生忠郷、蒲生忠知、熊本藩主加藤忠広正室【崇法院、琴姫・依姫】)が生まれます。

お家騒動からの立ち直り、そして3人の子供たちと、これから二人の生活はより良いものへと変わるように、振姫は思っていたかもしれません。

しかしふたたび、蒲生家には不穏が空気が流れ始めていました。

秀行自身が任じた家老・岡重政に反発する重臣の出奔、会津地震などが起こり、秀行の心は少しずつ均衡を崩し、飲酒量が増えていきました。

無茶な飲酒などが寿命を縮めたのでしょうか、秀行は慶長十七年(1612)にわずか30歳の若さで早世します。

残された未亡人・振姫は10歳になったばかりで藩主となったわが子・忠郷の後見役を務めるようになりました。

会津藩の後見役・振姫

残された息子・忠郷はまだ10歳という若さではありましたが、やはり家康の孫ということもあってか、減俸などを受けることなく会津藩60万石の藩主として就任します。

しかし、まだ10歳の子供に藩の執政が取れるはずもなく、振姫が後見役として事実上藩の最高責任者のような立場になりました。

彼女は息子を守ろうと必死だったのでしょうか、夫の任じた家老・岡重政と激しく対立します。

一説には対立の契機は、会津地震の復興をどのように推し進めるか、ということだったとか。

信心深かった振姫は寺社の復興を優先させようとし、一方重政は民衆の救済を優先させようとしたのだそうです。

重政はそれ以前にも重臣と対立し、重臣を出奔させるなどといったことがありました。

振姫は自身も同じように会津藩の意思決定からはじかれることを恐れたのでしょうか、駿府の父・家康に嘆願して、なんと重政を死罪に追いやります。

是より先き、蒲生家の老臣中に紛議あり、家康之を裁し、岡重政を誅し、蒲生郷成を復帰せしむる

引用:『大日本史料』

重政の死後は、重政以外の二人の家老や、重政と対立していた重臣らが呼び戻されて、会津藩の家政を担うこととなります。

とはいえど、この際に重政と懇意にしていた家臣が出奔するなどします。

これ以後も蒲生家中ではたびたび重臣同士の対立が起こり、家臣の出奔などが何度も起こるのですが……。

彼女の息子たちの代で蒲生家は断絶しますが、その遠因は蒲生家内のこの混沌にもあったのかもしれません。

娘の頼みを受け入れて、蒲生家重臣・岡重政を処刑させた家康ですが、自身の娘に会津藩の後見が務まるのか?ということを改めて考えたのかもしれません。

振姫は幼い息子を置いて、蒲生家を離れることとなります。家康によって定められた、再婚の縁談によって。

振姫と浅野長晟の再婚

秀忠、妹振姫を紀伊和歌山城主浅野長晟に嫁す

引用:『大日本史料』

元和元年(1615)に、振姫は蒲生家を離れ、翌元和二年(1616)に、和歌山藩主浅野長晟と再婚しました。

新たな夫となった浅野長晟は振姫の6歳年下の30歳、正室はいませんでしたがすでに側室との間に子もいました。

とはいえど、浅野長晟からすれば家康の娘を粗略に扱うはずがありません。すぐに振姫は浅野長晟の子を身籠ります。

和歌山城に入った振姫は、元和三年(1617)に、浅野長晟の嫡子(後継者)となった浅野光晟を産みますが、その産褥で亡くなります。享年は38歳でした。

遠い会津にて、彼女の死を聞いた息子・忠郷は彼女の菩提を弔うため、寺院に領地を寄付しています。

また忠郷は義父にあたる浅野長晟とも懇意にしていたようで、浅野長晟がのちに家老・浅野氏重を殺したことで問題になった際には、浅野長晟が咎めを受けないように奔走したといいます。

忠郷と浅野長晟は、もしかしたら江戸城などで出会う時に、振姫の思い出話などをしていたかもしれませんね。

振姫が蒲生秀行との間に儲けた子たちは、いずれも子孫を残すことが出来ませんでした。(長男忠郷には子はなく、次男忠知の子たちは早世、長女琴姫の子も10代で死去)

しかし、浅野長晟との間に儲けた浅野光晟は、和歌山藩主から広島藩主となった父・長晟の後を継いで広島藩主浅野家二代目として多くの子を儲けました。

振姫、浅野光晟の子孫は江戸時代を通して広島藩主浅野家、そして明治維新以後も浅野侯爵家の当主として現代まで続いています。

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