奥州藤原氏3代目・藤原秀衡の妻(正室、側室)たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

出羽・陸奥の2国に渡る広大な範囲に影響力を及ぼし、奥州藤原氏の最盛期を築いたのが奥州藤原氏の三代目である藤原秀衡です。

日本史においては、源頼朝の庇護者としても名高いですね。

そんな藤原秀衡の妻(正室、継室、側室)について調べてみました。

正室?:佐々木秀義の伯母

有近江國住人佐々木源三秀義者 平治逆亂時、候左典厩御方、於戰場竭兵略而武衛坐事之後、不奉忘舊好兮、不諛平家權勢之故、得替相傳地佐々木庄之間、相率子息等、恃秀衡、〈秀義姨母夫也〉赴奥州至相摸國刻、澁谷庄司重國、感秀義勇敢之餘、令之留置之間、住當國、既送二十年畢此間、於子息定綱盛綱等者、所候于武衛之門下也

引用:『吾妻鏡』

藤原秀衡の正室は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では康すおんさんが演じたことでも注目を浴びた佐々木四兄弟の父・佐々木秀義の伯母にあたる女性だと言います。

藤原秀衡正室と言えば、院近臣藤原基成の娘が有名ですが、彼女は佐々木秀義と血縁関係にはありません。

『吾妻鏡』によると少なくとも、平治年間(1159~1160)時点では、「佐々木秀義の伯母」が正室であった……ようです。そのため佐々木秀義は平治の乱後に奥州に落ち延びることを考えたようです。

ただこの「佐々木秀義の伯母」が本当に秀衡の正室であったのか?については疑義もあります。

というのも、佐々木秀義の母は奥州に勢力を持った俘囚の長・鳥海三郎こと安倍宗任の娘だといいます。

そしてこの鳥海三郎阿部宗任の娘の一人は、藤原秀衡の父・藤原基衡に嫁いで秀衡を産んでいるというのです。

ですからこの「佐々木秀義の伯母」=「阿部宗任の娘」だとするならば、彼女は秀衡の正室ではなく、秀衡の母というのが正解です。

もちろん、阿部宗任の娘の一人が、甥にあたる秀衡に嫁いだ……という可能性もあるでしょうが。

平治年間にはすでに継室とされる徳尼公が秀衡に嫁いでいた可能性も高いので、やはり佐々木秀義の伯母は本当に秀衡の正室であったのか?は不明瞭と言えるでしょう。

正室?継室?:徳尼公

藤原秀衡の正室(継室)は、院近臣である陸奥守藤原基成の娘である「徳尼公」でした。

父の藤原基成は、源義経の母である常盤御前の再婚相手・一条長成の従兄弟です。義経が頼朝に会う前に、奥州にいたのはその縁でしょうか?

また基成は院近臣、かつ異母妹が摂関家の側室と朝廷の大物たちとの太いパイプがありました。

藤原基成は康治二年(1143)から仁平三年(1153)まで約8年間、陸奥守、鎮守府将軍として平泉に下向して、藤原秀衡の父・基衡と関係を構築しました。

その後平治の乱で異母弟・藤原信頼に連座して陸奥国に流され、奥州征伐まで奥州に居続けました。

藤原基成の娘・徳尼公がいつ頃藤原秀衡に嫁いだのかは分かりません。

ただ彼女所生という藤原秀衡次男・藤原泰衡は 久寿二年(1155年)生まれだと言われています。おそらく彼女は父基成が陸奥守在任中に嫁いだのではないでしょうか?

おそらく基衡主導の結婚で、奥州と朝廷(中央)の融和を図るために行われた結婚でしょう。

徳尼公は秀衡正室、嫡子泰衡の母としてゆるぎない権力を握っていた……ように思われますが、一方でどこか雅やかな泰衡よりも、雄々しい武者である秀衡の庶長子・藤原国衝も奥州では耳目を集めていました。

そのため、藤原秀衡は自身の臨終の席で、徳尼公と国衝を再婚!させる奇策に打って出ます。泰衡を国衝の養子のような立場にすることで、泰衡をサポートさせたわけですね。

元義母と庶子との結婚生活がどのようなものだったのかは分かりませんが……いずれにせよ、結婚生活は短いものでした。

翌年、奥州征伐の兵が鎌倉から差し向けられます。阿津賀志山の戦いで総大将を務めた国衝は、3日に及ぶ奮戦の末、和田義盛に討ち取られます。

そしてその翌月には、藤原泰衡が家臣によって討ち取られ、奥州藤原氏は滅亡しました。

藤原基成娘・徳尼公がどうなったのかはわかりません。

平泉は源氏軍によって制圧されたものの、激しい戦闘や掠脱があったわけではありませんでしたから、彼女も存命であった可能性が高いように思います。

父藤原基成ともども、都にもどったのか?

それとも泰衡の子(少なくとも幼い息子がいたといいます)を庇護してひっそりと暮らしていたのか?

すべては歴史の流れの中に消えてしまいました。

側室:信夫佐藤氏の娘

藤原国衝の母は、藤原秀衡の側室であるということは確定していますが、出自については2説あります。

一方の説では、信夫佐藤氏の娘だと言います。

信夫佐藤氏というと、信夫荘司・湯荘司である佐藤基治(義経の近習佐藤兄弟の父)が有名ですが、佐藤基治は藤原秀衡と同年代ですから、もしも秀衡側室がいるとしたら、佐藤基治の姉妹あたりでしょうか?

佐藤基治は秀衡の従姉妹・乙和子姫と結婚する、さらに秀衡の子忠衝に娘を嫁がせるなど、奥州藤原氏ともかなり関係が深いことで知られています。

もしも佐藤基治の縁者である信夫佐藤氏の娘が国衝の母であるならば、国衝が泰衡を脅かしかねないほどの人望があってもおかしくはなさそうですよね。

側室:蝦夷の娘

藤原国衝の母は、信夫佐藤氏の娘とも言われていますが、異説では蝦夷の娘だとも言われています。

蝦夷の娘について詳細は分かりませんが、あるいは「俘囚の長」を称した安部氏、清原氏の縁者の可能性もありますね。

側室:藤原忠衝・通衡の母

秀衡の死後、父秀衡の遺言に従って源義経を庇護することを主張した秀衡の三男・忠衝と、忠衝の同母弟である通衝は、泰衡によって奥州征伐以前に滅ぼされています。

忠衝と通衝は泰衡の異母弟と伝わっていますので、少なくとも藤原基成娘・徳尼公の所生ではありません。

ただ、母親がどのような女性だったのかは分かりません。

忠衝の妻は、義経の近習・佐藤兄弟と義経側室とされる浪の戸の姉妹である「藤の江」だといいます。

そのことから考えると、忠衝の母ももしかしたら信夫佐藤氏と関係が深い女性だったのかもしれません。

あるいは藤原国衝の母だという信夫佐藤氏の可能性もあるかもしれません。

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