阿野全成 義経と頼朝の陰に生き続けた男

中世史(日本史)

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梶原景時失脚の引き金となったのは、北条義時の妹・阿波局でした。その阿波局が結婚していたのが、阿野全成。「悪禅師」と称された頼朝の異母弟で、そしてあの義経の同母兄にあたる人物です。

源氏将軍家の中でひっそりと暗躍し続けた阿野全成。その生涯について調べてみました。

阿野全成の系図は豪華で弟はあの義経

阿野全成は、河内源氏の棟梁であった源義朝と、その妾である常盤御前の間に生まれました。

異母兄の頼朝は熱田大神宮司家出身の由良御前を母としており、母の身分も高かったのですが、全成の母は宮中に仕える下仕えであり、かなり低い身分でした。

しかし同じ常盤御前の腹から生まれた弟には、悲劇の英雄として名高いあの源義経がいます。

また、母常盤御前も、一説には父源義朝死後、平清盛とも関係を持ち、娘(「廊の御方」という女房名で知られています)を産んだと言われるなど、平家の伝説を彩るヒロインの1人でもあったりします。

こうしてみると、全成の系図は非常に豪華なことが分かりますね。

阿野全成の幼名は今若(今若丸)

阿野全成は幼少期、今若(今若丸)という名を名乗っていました。兄弟の源義経は「牛若丸」を名乗っていましたし、また同じ常盤御前腹の義円も、幼名は乙若でしたから、同母兄弟同士で「若」という字を共通で使っていたみたいですね。(異母兄頼朝は「鬼武丸」なので、全く違う名前ですね。)

両親の元すくすく育った今若ですが、7歳の時、平治の乱が起こり、父義朝は殺されてしまいます。長兄義平(義朝の庶長子)は処刑されますが、今若たちは助命されました。嫡男頼朝は伊豆国ヘ流刑となり、今若たち常盤御前腹の3兄弟はいずれも寺に入れられることとなります。

出家した今若は「全成」と名乗るようになります。

「全成」という名前には、「すべてを完璧に成し遂げること」という意味があります。この名前は全成が自ら付けたのか、それとも誰かにもらった名前なのかは分かりませんが、全成が疑い深い頼朝の目を潜り抜けて生き延びたことを考えると、ある意味名は体をあらわした……のかもしれません。

平家治世下、僧侶として日々を穏やかに過ごしていた全成ですが、河内源氏の棟梁の息子だという自負は保ったままだったのでしょう。兄頼朝が挙兵したと聞くや否や寺を出奔し、頼朝の兄弟の中で誰よりも早く、頼朝のもとに集いました。

北条時政娘・阿波局と結婚

同母弟義経は頼朝にうとまれ、平泉で非業の最期を遂げることになりますが、一方で全成に対しては頼朝は篤い信頼を寄せていました。

頼朝は全成を、自身の妻政子の妹である阿波局(本名が不明のため、後年の女房名を便宜的に使うことにしますね)と結婚させます。さらに、阿波局ともども、自身の次男千幡(のちの源実朝)の乳母父に任命しました。

二代将軍頼家との対立

頼朝の生前は、全成は特に目立った活動はしていなかったのですが、実朝の乳母父ということもあってか、二代将軍頼家の治世下では実朝派としての活動が目立つようになりました。頼家からすると疎ましいことこの上なかったのでしょう。

全成は、頼家の命令によって常陸国へと流罪にされてしまいます。そして流罪先から下野国に移され、13人の御家人の1人、八田知家によって殺されることとなるのです。

阿野全成の墓は沼津の大泉寺にある

阿野全成は下野国で殺害されましたが、その遺骸は阿野一族のもとに戻ってきたようです。全成のお墓は、沼津の大泉寺に、息子の時元の墓と並んで存在しています。とはいえど、このお墓は確実に全成の墓と言えるわけではなく、あくまでも「伝」阿野全成の墓であります。

阿野全成の子孫には後醍醐天皇寵姫・阿野廉子がいる

全成と阿波局に生まれた時元は、父の死後も連座を免れ、何とか生き延びました。しかし3代将軍実朝死後、将軍の座を狙って挙兵してしまいます。(血筋だけでいえば頼朝の甥なので、おかしくはないのですが……。)最終的に北条義時の命令によって討ち取られてしまいました。

時元には息子義継がいましたが、彼は祖父、父へと受け継いだ駿河国阿野荘(名字の由来にもなった土地)を受け継ぐことはありませんでした。全成の娘(時元の姉妹)で、公家の藤原公佐と結婚していた女性が、阿野荘を引き継いでいくことになります。

全成-時元の直系男系子孫は、河内源氏の本流に近い家柄ながら、それゆえに鎌倉幕府、執権一族に警戒され、あくまでも地方領主の一族として細々と存続します。ただ南北朝期には、記録から姿を消しました。

一方、全成娘と藤原公佐の子孫は「阿野家」を名乗り、公家として続いていくことになります。そして鎌倉時代の終わり、その阿野家の子孫から一人の女が生まれ、世の中をかき乱すこととなります。

彼女の名前は阿野廉子、後醍醐天皇の寵姫として政治を牛耳り、最終的に鎌倉幕府の打倒さえも見届けることとなるのです。

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