丹後局~楊貴妃と呼ばれた女~

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

後白河院(後白河法皇)は、何人もの女性や白拍子たちを寵愛しました。そんな後白河院が晩年、熱烈に寵愛したのが「丹後局」です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では鈴木京香さんが演じることでも話題になっている丹後局がどのような女性だったのか、調べてみました。

丹後局の本名は「高階栄子」、読み方は?

「丹後局」という名前は、女官としての名前です。読み方は「たんごのつぼね」ですね。

丹後局は二位の位を得ていたことや、浄土寺のあたりに屋敷を持っていたことから、「浄土寺二位(じょうどじにい)」とも呼ばれたそうです。

そんな丹後局の本名は「高階栄子」です。読み方は「たかしなのえいし」もしくは、「たかしなのよしこ」であるようです。

高階氏は表向きは奈良時代の長屋王から続く名門公家の一族ですが、実は在原業平が清和天皇皇女・恬子内親王(伊勢神宮の巫女姫・斎宮)を妊娠させて生まれた子供の末裔だとも言われています。

どこかインモラルないわれを持つ一族に生まれた栄子が、後白河院を意のままにしたのもある意味頷ける……かもしれませんね。

丹後局の父は僧侶、母は平政子(若狭局)、実は平清盛の従姉妹?

丹後局の父親は公家……の一族(高階氏)出身ではありますが、実は僧侶です。

この時代、僧侶が子供を持つことは珍しくなく、例えば後鳥羽天皇の側室で土御門天皇の母である承明門院源在子も、実父は僧侶であったりします。

丹後局の父親については2説あり、法印・澄雲、もしくは上座・章尋と言われています。この2人の事績等は詳しくはよく分かりませんが、いずれにしても高位の僧侶であったことは間違いないようです。

丹後局の母親、もしくは叔母ではないか?と言われているのが、建春門院平滋子の乳母である若狭局・平政子です。

この若狭局、平正盛の娘、つまり平清盛の叔母にあたる女性だったりします。彼女は平滋子所生の後白河院皇子・高倉天皇の女房でもありました。

こうしてみると、実は高階栄子、平家との関係性も深い(清盛の従姉妹の可能性がある)ように思いますね。

丹後局と平清盛の因縁

丹後局は、平滋子(建春門院/後白河院の妻)の乳母の娘として生まれたと言われています。

その縁もあってか、彼女は後白河院近臣の平業房と結婚し、数人の子の母親となりました。夫の業房は今様の才能があり、後白河院に深く寵愛されていたようです。

業房との結婚生活の間に、業房が造営した浄土寺の山荘に後白河院、そしてその妻の建春門院の御幸がありました。このころは、あくまでも栄子は業房の妻として、後白河院夫妻のもてなしに奔走したことでしょう。

後白河院のほうはどうだったのでしょうね?近臣の妻と会話を交わす中で、うっかりときめきを感じたこともあったのかもしれません。

しかし、後白河院と関係の深い業房は、後白河院と関係が悪化した平清盛からすれば、目の上の瘤のような存在だったでしょう。

鹿ケ谷の政変では、後白河院の嘆願もあって処分を免れた業房ですが、治承三年の政変で、とうとう伊豆へ流罪になってしまいます。

しかし業房は途中で逃亡、しかし捕まってしまい、拷問を受けた末に殺されました。この時栄子の夫・業房を取り調べたのは平清盛の次男・宗盛だったと言われています。

高階栄子が夫の死に何を感じたのか、詳しいことはよく分かっていません。ただ、栄子が後白河院の寵姫となったあとも、浄土寺などで業房の供養は行われていたようです。

栄子なりに、非業の死を遂げた夫を弔っていたのではないでしょうか。

丹後局と後白河院

朝務は偏にかの唇吻にあり

引用:『玉葉』

夫が流罪になった後、いつのころからか栄子は鳥羽殿に幽閉されていた後白河院のそば近くに仕えるようになります。

彼女の名前が一躍世に出るのは、養和元年(1181)に、後白河院の第六皇女・覲子内親王を産んだことにはじまります。

覲子内親王は後白河院の寵愛を受けて、わずか11歳にして院号宣下、宣陽門院となりました。さらに、後白河院から長講堂領と呼ばれる膨大な荘園を引き継ぎます。

そして、覲子内親王の母である栄子は、「丹後局」として知られるようになりました。さらに同じ年に平清盛が死去したことにより、後白河院は勢いを取り戻します。

必然的に、後白河院寵愛第一の人であった丹後局も権勢を振るうようになりました。

とはいっても、後白河院存命時はあくまでも後白河院に追従するような形で権威を振るったようです。

安徳天皇の都落ち後、新たな天皇を建てようとするときに、第二皇子ではなく、第四皇子であった後鳥羽天皇を立てるように進言したのは丹後局だったと言われています。

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丹後局と源義経

丹後局と源義経に直接のかかわりはなかったようです。

ただ、義経と頼朝の関係が悪化するきっかけとなった無断での後白河院からの任官などに、もしかしたら丹後局の考えがかかわっていたかもしれませんね。

ただ頼朝は義経死後、丹後局と関係性を深めていますから、少なくとも頼朝自身としてはそのようには考えていなかったのでしょう。

丹後局と源頼朝

丹後局は、後白河院存命時から、頼朝の意を受けた大江広元らと面会するなど、鎌倉とのかかわりを持っていました。

後白河院没後も、丹後局は頼朝とは折に触れて贈り物などをしていたようです。

ただ丹後局は頼朝の思い通りに動いたか……と言われるとそうでもありません。

頼朝は鎌倉武士の棟梁でしたが、もともと京の出身でもあります。平清盛のように、娘を入内させ、孫を天皇に……と考え始めていました。

その第一歩として、長女大姫(大姫没後は次女乙姫【三幡】)を後鳥羽天皇の後宮に入内させようと試みます。

しかし、丹後局はあまり乗り気ではありません。実現でもしたら、頼朝の権威がさらに強くなりますからね。

そのあたりが影響したのか、丹後局は親頼朝派である摂関家の九条兼実と対立し、最終的に失脚にまで追いやっています。

ただその後も、丹後局と頼朝との関りは絶えたわけではないようです。両者、利用できるようなら利用しようとしあうような、利害で一致した結びつきだったのかもしれませんね。

丹後局と浄土寺(浄土院)

丹後局の夫・平業房は浄土寺のあたりに山荘を持っていました。業房亡きあと、丹後局は浄土寺に隠棲するようになり、「浄土寺二位」と呼ばれるようになります。

彼女は浄土寺の寺域内に山荘だけでなく、持仏堂も持っていました、

浄土寺は室町時代に銀閣(慈照寺)建立のため相国寺のあたりに移転されますが、廃絶します。一方浄土寺の跡地は、江戸時代に浄土宗の寺院・浄土院として復興を遂げました。

現在でも、浄土院内には、丹後局の像が置かれている「丹後局堂」があります。

丹後局と山科家

丹後局は後白河院との間に皇女・覲子内親王を儲け、彼女は後白河院から長講堂領と呼ばれる膨大な所領を受け継ぎました。

覲子内親王の母である丹後局も、後白河院から山科の荘園をもらいます。

丹後局がもらった山科の荘園は、丹後局が前夫・平業房との間に儲けていた次男・藤原教成(藤原実教の猶子となっていたため、藤原を名乗る)に引き継がれました。

教成の子孫は代々「山科」を名乗り、「羽林家」の公家として続いていくこととなります。

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