史上初の「宣下の根拠(天皇の皇后、天皇の准母など)を持たない」女院となったのが、後白河院の第六皇女・覲子内親王です。
他の姉妹たち(殷富門院、式子内親王など)はいずれも成人してかなり期間がたってからの女院宣下、准三宮宣下などを受けていることを考えても、少女と言える年齢で女院宣下を受けた彼女が父親に特に寵愛されたことが良くうかがえます。
そんな宣陽門院覲子内親王について調べてみました。
宣陽門院の父は後白河法皇、母は丹後局
宣陽門院覲子 後白川女 母従二位高階栄子 元丹後局相模守平業房妻也 養和元十五生 文治三八三着袴七 文治五十二五為内親王九 同日准三宮 建久二六廿癸卯 院号十一 元久二三十一為尼 長講堂 廿五 性円智 建長四六八御 七十二
引用:『女院小伝』
宣陽門院覲子内親王は、後白河天皇の第六皇女として、養和元年(1181)に生まれました。母高階栄子は30代、父後白河法皇は、すでに54歳となっていました。
覲子内親王が生まれたときには、すでに彼女よりも年長の甥にあたる安徳天皇が即位していました。
異母兄にあたる安徳天皇の父・高倉天皇は彼女が母のお腹にいるときにすでに亡くなっています。
鍾愛した高倉天皇の死もあったためか、後白河法皇は新たな寵姫との間に生まれたこの娘を猫可愛がりしました。
わずか9歳で内親王宣下(この時代は、皇女であってもこの宣下がなくては「女王」としか名乗れませんでした)を受けます。
さらにその時に三后(皇后、皇太后、太皇太后)に准ずる「准三宮」に任ぜられます。
ちなみに異母姉式子内心王は中年に入ってようやく准三宮、別の異母姉好子内親王は45歳でなくなるまでついぞ准三宮に任ぜられることはありませんでした。
この時点で覲子内親王の破格の待遇っぷりが分かりますよね。
さらにその2年後、11歳にして院号宣下、宣陽門院となります。彼女の姉妹で院号宣下を受けたのは長姉である殷富門院亮子内親王のみです。
しかも殷富門院は安徳天皇准母としての院号宣下でしたが、覲子内親王は准母でもなく、天皇の妻でもなく院号宣下を受けました。これはそれまでの歴史上で初めてのことでした。
父後白河法皇の寵愛を背景に、覲子内親王の権力はさらに強くなり続けます。
内親王宣下の少し前には、宣陽門院は、後白河法皇の姉・上西門院の所領(法金剛院領など)を受け継いでいました。
さらに彼女は、院号宣下の翌年、後白河法皇から長講堂領と呼ばれることになる、42ヵ国89ヵ所にも及ぶ莫大な所領を与えられました。
同年後白河法皇は亡くなり、彼女は幼いながらに庇護者を失います。しかし、莫大な所領を持つ女領主として宣陽門院は権力への道を一歩ずつ歩み始めます。


宣陽門院と源頼朝・北条政子
將軍家御參内、又令參宣陽門院給長講堂領、七箇所事、任故院遺勅、可被立之由申、沙汰給之〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
建久六年(1195)、源頼朝と北条政子は上洛しています。頼朝はこの上洛の際に、宣陽門院と宣陽門院の母・丹後局とも面会をしています。
この時宣陽門院はまだ10代半ば、東国からやってきたもののふたちをどのように思いながら面会したのでしょうか?
頼朝はこの時18歳になったばかりの長女・大姫を後鳥羽天皇の後宮に送り込もうとしていた……と言われています。頼朝からすれば、宣陽門院にもいずれ入内するわが娘の味方になってほしかったのかもしれません。
しかしこの入内はかなうことなく大姫は早世、頼朝もこの4年後に急死しています。
宣陽門院と源通親
わずか12歳にして長講堂領、上西門院領など莫大な所領を受け継いだ宣陽門院。
父・後白河法皇はすでに亡くなっていましたが、彼女はすでに権力と結びついていました。
女院には、上皇と同様に院庁という家政関係を担う役所が設置されます。宣陽門院の院別当(院庁の長官)になった男は源通親。
後鳥羽上皇の後宮源在子(土御門天皇母・承明門院)の義父として権力をふるった男でした。
彼女は院別当である通親を通して、権力が何たるかをよく見ていたのかもしれません。
通親は建仁二年(1202)に亡くなりますが、宣陽門院はその後、後鳥羽天皇との関係を深めていきます。
宣陽門院と雅成親王、承久の乱
宣陽門院は当時の内親王たちの例にもれず、未婚でした。
自分の死後、法要などは誰がしてくれるのか?死後に所領はどうなるのか?それは当時の内親王たち共通の悩みだったでしょう。
宣陽門院は、後鳥羽上皇と、その寵姫である修明門院藤原重子の子である雅成親王を猶子に迎えます。
雅成親王の母・藤原重子は土御門天皇の母である源在子以上の寵愛を受けています。
さらに藤原重子の長男で、雅成親王の同母兄にあたる皇子は、源在子所生の土御門天皇を皇位から追い出して天皇(順徳天皇)となっていました。
このような生まれもあって、雅成親王は、源実朝死後に一度将軍就任要請もされるなど、後鳥羽天皇寵姫から生まれた後鳥羽天皇の愛息子として、朝廷からも幕府からも注目を浴びていた皇子だったと言えるでしょう。
宣陽門院は自身の莫大な所領を、自分が死んだら猶子である雅成親王に受け継がせるつもりでした。
しかし、承久三年(1221)、承久の乱がおこりました。
雅成親王は、承久の乱に加担していたとして、但馬国に流罪にされます。
宣陽門院は承久の乱への加担なしとして、所領を没収されるなどの処罰を受けることはありませんでしたが、雅成親王との猶子関係は解消せざるを得ませんでした。
宣陽門院と近衛長子(鷹司院)
うかりける世の夢のさめぬまを してもうつゝの心ちやはせし
引用:『玉葉和歌集』宣陽門院和歌より
承久の乱によって、猶子雅成親王、そして後鳥羽上皇へとつながる権力のラインを宣陽門院は奪われます。
新たな天皇は後堀河天皇、後鳥羽天皇の同母兄後高倉院の息子でした。宣陽門院は後堀河天皇とのつながりを模索します。
嘉禄元年(1225)、宣陽門院は摂関家出身の少女を養女に迎えました。彼女の名前は近衛長子、当時8歳です。
そして翌年、9歳の近衛長子を後堀河天皇の后(中宮)として、後宮に送り込むのです。夫となる後堀河天皇は14歳でした。
この時後堀河天皇には19歳になる中宮・三条有子がいましたが、彼女を皇后に冊立して無理やり中宮位に長子を入れます。
平安時代の一条天皇皇后定子と中宮彰子(上東門院)の話を思い出しますね……。
居場所を失った三条有子は宮中を退いたようで、翌年に皇后位を去り、安喜門院の院号宣下を受けています。
さて、後堀河天皇の事実上唯一の后妃となった近衛長子に、宣陽門院は皇子の誕生を期待したことでしょう。
まだ幼いとはいえ、養女がいずれ天皇となる孫を産めば、自分の死後も安泰だ……
しかし宣陽門院の目論見はまたしても崩れることになります。
寛喜元年(1229年)、頼朝の妹のひ孫で、鎌倉幕府四代目将軍藤原頼経(九条頼経)の同母姉にあたる九条竴子が後堀河天皇に入内、中宮になりました。
近衛長子はかつて三条有子を追い出したように、今度は自分自身が後宮から追い出されました。この時長子は12歳。三条有子同様に長子も院号宣下を受け、「鷹司院」となります。
12歳の少女であった長子に、当然ながら子はいませんでした。
承久の乱の時のように、鎌倉幕府と宣陽門院の因縁をどこか感じさせるエピソードですね。
ちなみにこの時入内した九条竴子は後堀河天皇との間に四条天皇を産みますが早世、さらに後堀河天皇も早々と亡くなります。
庇護者がいなくなった四条天皇の准母として近衛長子(鷹司院)が引っ張り出されますが、四条天皇もまた夭折します。
宣陽門院と後深草院・持明院統
その後しばらくはおとなしくしていた宣陽門院ですが、老境に入るにつれて自身の遺産をどのように処遇するか改めて考え始めました。
近衛長子(鷹司院)に全部引き継がせても良いですが、近衛長子(鷹司院)に子供はいませんから、その後がやはり心配です。
寛元四年(1246)、宣陽門院は時の治天の君(院政を行っていた上皇)・後嵯峨上皇に、彼の息子である後深草天皇に長講堂領を、近衛長子(鷹司院)に、上西門院領を引き継がせることを要請します。
しかし後嵯峨上皇はあまり後深草天皇を気に入っていなかったこともあってか、庶子である宗尊親王(鎌倉幕府六代目将軍)に引き継がせるのはどうか?と提案します。
しかし宣陽門院はそれを拒み、後深草天皇への継承にこだわりました。
結局5年後、双方譲歩する形となりましたが、宣陽門院の生前に後深草天皇に長講堂領が後深草天皇に譲られることとなりました。
後深草天皇に譲られた長講堂領は、のちのち後深草天皇の子孫である持明院統の財政基盤となります。
長講堂領は南北朝の動乱以降も天皇家に引き継がれ続けますが、応仁の乱以降に衰退しました。
宣陽門院と東寺
宣陽門院は25歳の時に、父後白河法皇以来関係性の深い長講堂にて出家し、尼となっています。
この当時内親王の多くは生涯未婚でしたが、宣陽門院もその例にもれずついぞ結婚をすることはありませんでした。
長講堂にて出家を果たした宣陽門院ですが、彼女は深く空海に帰依しました。
彼女は長講堂領などの荘園から得た収益を用いて、当時落剝していた東寺(教王護国寺)の復興に当てました。
彼女は御影供や生身供といった現代まで伝わる東寺の法要を主催したほか、さらに自身に寄進された荘園を東寺に寄進し、東寺の財政基盤の整備を行いました。
女領主として莫大な財産を持ち、かつ所領経営の経験が豊富な彼女にしかできない応援方法ですよね。
ちなみにこのきっかけは嘉禎元年(1238)に当時の東寺長者行遍から伝法灌頂という仏教儀式を受けたからだとも、寛元元年(1243)に「御霊夢」を見たからだとも言われます。
しかし、どんな霊夢だったんでしょうね。霊夢の内容がどのようなものだったかは現代まで伝わっていません。