江戸幕府10代目将軍・徳川家治の妻(正室、側室)たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

江戸幕府10代目将軍・徳川家治は祖父・吉宗からその英明さを見込まれながらも、なかなかうまく幕政を取りしきれなかった……という風に語られることも多い将軍です。

とはいえど、彼は父に引き続いて田沼意次を重用し、江戸時代としてはかなり先進的な重商主義をとったことでも知られています。(そのせいで賄賂が横行した、と言う話もありますが、江戸時代はそもそも賄賂社会なのでどこまで批判すべきなんでしょうね……)

将軍としての才覚はおいといて、家治自身は周りを気遣うことが多く、優しい人格であったことがいくらか伝承で伝わっています。

そんな家治ですが、家庭生活においては円満だったにもかかわらず、わりと不幸も多かったようで……。

徳川家治の妻(正室・側室)たちについてまとめてみました。

徳川家治の正室(御台所):五十宮倫子女王(心観院)

家治の正室は、閑院宮直仁親王(中御門天皇の弟)の王女である倫子女王でした。

倫子女王は直仁親王と家女房・讃岐(伊藤氏)との間に生まれた六女で、10歳になったころに家治との縁談が決まります。夫となる家治は倫子女王よりも一つ年上でした。

その後、倫子女王はすぐに京都をでて江戸城・浜御殿に入り、結婚までおよそ4年ほどを浜御殿で過ごしました。

なぜすぐに結婚しなかったのかは謎ですが、倫子女王が若かった(10代前半)だったことも影響したのかもしれません。

宝暦三年(1753)に結婚した二人は、相当仲睦まじい夫婦だったようで、家治は江戸時代の将軍としては異例なことにこの正室から子供を複数人授かっています。(彼女以外に子を複数産んだ御台所は徳川秀忠の御台所・お江【お江与】しかいません)

あまりにも家治が倫子女王のもとを訪れるため、「さすがに……」と思った倫子女王の侍女たちが会わせないようにしたため、家治と侍女たちがけんかをしたなんて話も残されています。

家治と倫子女王の間には二人の姫君が生まれますが、残念ながら男の子は生まれず……。

家治の乳母・松島局は家治に側室を持って男子を儲けるように求めました。

家治は泣く泣く(というのも側室からすれば失礼な話ですが)側室を2人持ち、生まれた息子2人は御台所の養子として扱うこととしました。

ちなみに側室たちとは子供が生まれたらまったく関係を持たなかったとか。

本当に子供のためだけに通ったみたいです。

男子が生まれなかったとはいえ、家治はかなり倫子女王のことを大切にしていたのですね。

しかし、倫子女王は家治に先立って明和八年(1771)に亡くなります。

家治は倫子女王が死んだ時は35歳、その気になれば再婚も出来たでしょうし、あるいは側室を持つこともできたでしょう。

しかし、家治は倫子女王の死後、自身が死ぬまで15年女性をそばに近づけることはなかったようです。

倫子女王と家治の間に生まれた娘たちは、いずれも父家治に先立って、嫁ぐことなく亡くなりました。

徳川家治の側室:お知保の方(智保とも、蓮光院)

女子 母は某氏。浚明院殿の御側ちかくつかへたてまつり、はじめ蔦のち千穂と称す。孝恭院殿の御母堂たり。天明六年九月二十九日より蓮光院御方と称し、寛政三年三月八月逝去。

引用:『寛政重修諸家譜』

書院番などを務めた旗本の津田内記宇右衛門信成(吉三郎とも)の娘として生まれ、のちに関東郡代・伊奈忠宥の養女となりました。

彼女はもともと大御所(前将軍)・家重の御次でしたが、将軍家治の乳母・松島局、そして同じように後継ぎがいないことを気にもんでいた田沼意次のの推挙で家治の中臈、側室となりました。

ちなみに家治はこの時、同じように側室がいなかった田沼意次にも無理やり側室を持たせたとか。

こんなに側室を持つことを嫌がる将軍ってなかなかいませんよね。

お知保の方は年齢は家治と同い年ですから、側室としては結構年長(20代半ば)だったみたいですね。

お知保の方は松島局、そして家治の期待を背負って見事に家治の嫡男・家基を産みますが、家基はすぐに正室である倫子女王の養育となり、手元から離れてしまいます。

その後は倫子女王にぞっこんだった家治の通いもなく、静かに大奥で過ごしていたようですが、倫子女王の死後、長らく手元から離れていた息子・家基と一緒に過ごせるようになります。

また倫子女王をはばかって使われていなかった「御部屋様(男児を産んだ側室に許される称号)」で呼ばれるようになりました。

このままいけば、彼女は将軍生母として絶大な権力を握る―はずだったのですが、そこで彼女を悲運が襲います。

家基が安永八年(1779)に、18歳という若さで早世したのです。

家基はまだ結婚もしておらず、ここに家重―家治と続いてきた血は途絶えることとなりました。

その後はひっそりと大奥の片隅で生活し、家治の死後は落飾、そして寛政三年(1791)に亡くなります。

ちなみに、将軍家斉の執政下、文政十一年に将軍生母でもなかった彼女に、異例の従三位が贈位されています。

家基の死は疑惑が多く、一説にはわが子家斉を将軍につけんとした一橋(徳川)治斉【家治の従兄弟】が毒殺したのだとも言われています。

50余人の子を儲けるなど享楽的な印象がある11代目将軍・家斉ですが、家基、そして家基生母であったお知保の恨みを恐れていたのかもしれませんね。

徳川家治の側室:お品の方(養蓮院)

公家の藤井兼矩の娘として生まれました。

藤井氏は鎌倉時代の文人・吉田兼好と同族(卜部氏)で、父の兼矩は従二位・非参議になっています。

お品は、将軍世子・家治の妻となることが決まった倫子女王の侍女となり、倫子女王とともに江戸入りします。

その後、家治の乳母・松島局の推薦もあってお知保の方と同時期に側室になったようです。

ちなみにお品の方は松島局の養女だったとか。

松島局の次期将軍へなんとか食い込まんとする意気込みを感じますね……。

お知保の方が長男・家基を産んだ少し後に家治の次男・貞次郎を産みましたが、貞次郎は翌年にはなくなってしまいます。

すでに家基がいる家治はそれ以上男子を作ることを望んでおらず、以後、お品のもとに通うことはなかったようです。

安永七年(1778)、家治に先立って大奥の片隅でひっそりと亡くなりました。

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