徳川吉宗の妻(正室、側室)たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

よしながふみさん原作の漫画『大奥』原作のNHKドラマ『大奥』が非常に人気を集めていますね!

あの作中では、女将軍・吉宗は未婚のまま将軍に就任した……という話だったのですが、実は史実では、吉宗はすでに一度結婚し、その妻をすでに亡くした身の上でした。

『大奥』の女将軍・吉宗がこれから夫を持つのか、側室を持つのかは分かりませんが、史実の吉宗は正室亡きあと、幾人かの側室を持っていました。(ただその側室たちの多くは長生きせず、吉宗の家庭生活はあまり華やかではなかったようです……)

美女を選んで大奥から解雇する、と言うありさまでしたから、吉宗の女選びは当時としてもやや独特だったようですが、実際のところ八代将軍・吉宗はどのような女性たちを妻としたのでしょうか。

気になったので調べてみました。

徳川吉宗の正室:真宮理子女王

御簾中 伏見文仁親王姫宮真宮御方宝永三 百戌年 三月十一日京都御発駕 同月廿七日赤坂之館に御入同年九月廿五日御縁組被

引用:『徳川幕府家譜』

吉宗は紀州藩主時代に、正室として伏見宮貞致親王の娘・真宮理子女王を正室として迎えています。

彼女はおばに徳川家綱御台所・顕子女王、吉宗の義母・照子女王(吉宗の父・光貞の正室)がいます。

おそらくこの婚姻は吉宗の義母・照子女王との縁が大きかったのでしょうね。

女中から生まれ、世子となる予定もなかった庶民派(?)の吉宗と皇族の女性……ミスマッチな感じもしますが、実際はそんなこともなかったようです。

結婚してからおよそ3年後、彼女は吉宗の最初の子を身籠ります。しかし翌年、死産の末に亡くなりました。

理子女王の死後、吉宗は二度と正室を迎えませんでした。後に、吉宗は理子女王の姪・比宮増子女王を嫡子・家重の正室に迎えています。

吉宗は彼女の死後、幾人もの側室を迎えていますが、それでも短い結婚生活の末、亡くなった正室に対する想いは人一倍深かったのかもしれません。

徳川吉宗の継室候補?:竹姫

吉宗は正室・理子女王の死後正室を迎えることはありませんでした……が、実はその後、正室を迎えるという話が持ち上がらなかったわけではありません。

将軍となって大奥入りした吉宗は、ある少女と仲良くなります。

その少女の名前は竹姫、将軍綱吉の側室・大典侍の姪で養女でした。

竹姫には会津藩主家、有栖川宮との縁談が持ち上がっていましたが、婚約相手に二度死なれており、当時は婚約者のいない状態でした。

吉宗が少女とどのようにひかれあったのかは分かりません、しかし20歳以上年下のこの姫君を、吉宗は特別に感じていたようでした。

もしかしたら公家出身の姫君に、かつての正室の面影を見たのか、それとも兄嫁であった鶴姫(徳川綱吉の娘)を思い出したのか。

しかし二人には大きな障壁がありました。

というのも五代将軍・綱吉の養女である竹姫は、系譜の上では吉宗の大叔母にあたるため、もし婚姻……とでもなれば、当時の幕府の風紀にはそぐわないものだったのです。

吉宗はすでに30を超えた男性、そして将軍でした。彼は我を通すことなく、今度はむしろ竹姫を嫁がせる方向に動きます。愛する人にせめて幸せをつかんでほしかったのかもしれません。

とはいえど、2度婚約相手をなくし、さらに吉宗とのうわさもあったいわくつきの姫君と結婚したい相手もそうそうおらず……。

竹姫は当時の大名家の姫君の婚姻適齢期を大幅に過ぎた20代半ばで、ようやく縁談が調い、嫁ぎます。

嫁ぎ相手は薩摩藩主島津継豊、すでに幾人もの側室と子を持つような男性でした。

竹姫は夫が側室との間に儲けた子も積極的に養育し、後々の島津家の開放的な気風に影響を与えます。また、竹姫は幕府とのつながりも維持したままでした。

竹姫を介して幕府とのパイプをもった島津家はこの後、11代将軍家斉御台所・広大院、そして13代将軍家定御台所天璋院篤姫を輩出し、明治維新に続くわけです。

幕府の立て直しに奔走していた吉宗としたら、まさか自分が取り持った縁組が後々に幕府崩壊へにもつながっていく……とは思ってもみなかったでしょうね。

徳川吉宗の側室:お須磨の方(深徳院)

御部屋様須磨之方紀伊殿家末大久保八郎五郎後伊勢守忠直女

引用:『徳川幕府家譜』

吉宗が最初に迎えた側室が、紀州藩士大久保忠直の娘・お須磨でした。

ちなみにお須磨の従兄弟には吉宗の側近・加納久通がおり、彼女はもしかしたら久通の推挙で側室となったのかもしれませんね。

お須磨が吉宗の嫡男・家重を産んだ時期などを考えると、おそらくではありますが、正室・理子女王の死後に側室にあげたのでしょう。

彼女は吉宗の嫡男・家重を産んだのち、再び身籠りますが、難産のため生まれた子供ともども亡くなりました。

吉宗将軍就任前のことだったため、お須磨は吉宗の側室ではありますが、大奥にて生活することはありませんでした。

徳川吉宗の側室:お古牟の方(本徳院)

御部屋於古牟之方竹本茂兵衛正長女

引用:『徳川幕府家譜』

お須磨の死後、吉宗は次の子を儲けるために新たな側室を探しはじめました。

吉宗には長男・家重がすでにいましたが、やはり当時は幼児死亡率が高いため、万が一に備えて、次なる男子をもうけておく必要があったわけです。

そこで白羽の矢が立ったのが、紀州藩士の娘であったお古牟の方でした。彼女はお須磨のはとこ(又従姉妹)にあたる女性でした。

ちなみに、『徳川実記』によると相当な醜女だったそうですが、吉宗は気にせず側室にしたとのこと。

吉宗が大奥から美女を解雇した逸話から出てきた噂話のような気もしますが、本当だったとしても記録に残すのは失礼すぎやしませんかね。

お古牟の方は吉宗の期待に応えて吉宗の次男・田安宗武を産みます。この宗武はのちのち嫡男・家重の地位を脅かしたほど、父吉宗に似た聡明な男性となります。

彼女は吉宗の将軍就任前に側室となり、吉宗の就任後は側室として大奥にて生活しました。

同時期に側室になったと思われるお久(お梅)はその後吉宗の子を産みましたが、彼女はその後は子を産むことなく大奥にて若くして亡くなりました。

ちなみに彼女の孫(田安宗武の息子)には、寛政の改革で有名な松平定信がいます。

松平定信は老中として幕府の執政者になりましたが、本当に世が世なら将軍になっても、まったくおかしくなかったんですよね。

徳川吉宗の側室:お久の方(深心院、お梅の方とも)

御部屋於久之方 谷口ノ長右衛門正次女

引用:『徳川幕府家譜』

おそらくお古牟の方と同時期~その少し後?に、吉宗の側室になったと思われるのがお久の方です。

吉宗の側室たちは今まで紀州藩士の娘でしたが、彼女はちょっと毛色が違う感じですね。

父親は京都の浪人の谷口正次、母親は朝廷に仕える武士・服部氏の娘だったといいます。

母親の身分を考えるなら、父も元々は朝廷もしくは公家に仕える青侍だったのかも……。

おそらく京にて生まれ育ったと思われるお久ですが、まだ10歳になる前に、幼くして和歌山城で生活していた吉宗の生母・お由利(浄円院)の侍女となります。

お久のことをお由利は気に入ったようで、息子・吉宗に側室とするよう勧め、お久は吉宗の側室となりました。

彼女は吉宗の三男(夭折)と、吉宗の四男(成長した男子の中では三男)一橋宗尹を産みますが、宗尹を産んだ年に亡くなっています。産後の肥立ちが悪かったのでしょうか……。

彼女のひ孫にあたる徳川家斉はのちに将軍位につき、以後14代目家茂まで、お久の方の子孫が将軍位につくこととなりました。

徳川吉宗の側室:お久免の方(覚樹院)

御部屋於久免之方紀伊殿家末稲葉清蔵女

引用:『徳川幕府家譜』

吉宗の子を産んだ側室たちはほとんど若くして亡くなりましたが、唯一例外的に吉宗よりも長生きしたのがお久免の方でした。

彼女は紀州藩主稲葉定清の娘で、もともとはお久の方同様に吉宗生母・お由利の方の侍女で、その後吉宗の側室に上がったといいます。

彼女は吉宗との間に、享保六年に芳姫を産んでいます。

長じていたならば、尾張や水戸などにでも嫁いでいたであろう芳姫ですが、彼女は幼くして亡くなっています。

娘の早逝、そして同じく吉宗の側室なったお古牟、お久たちの早逝とは裏腹に、お久免は長生きします。

彼女は吉宗の死後は落飾し尼となって、桜田御用屋敷に下がり、安永六年まで生きました。81歳だったといいます。

徳川吉宗の側室?:おさめの方・お咲の方

徳川吉宗の側室としては、このほかにおさめの方・お咲の方なる女性がいたといいます。

しかし、『徳川幕府家譜』には彼女たちの名前は残っておらず……おそらく子供を産んでいないからでしょうか?

詳しいことは何も分かりませんでした。

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