松平勝俊(松平康俊・久松勝俊)の妻(正室)と娘

中世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

家康の異父弟(母・於大の方が久松長家との間に儲けた子たち)たちは三人まとめて「久松三兄弟」と言われたりします。

彼らは家康の兄弟として厚遇され、彼らの娘たち(家康の姪)たちは、家康の養女として様々な大名家に嫁ぎました。

長男の男系はあまり栄えませんでしたが、三男の家系は、伊予松山藩主久松(松平)家として、長きに渡って栄えることとなります。

そんな久松三兄弟の真ん中・勝俊は30代の若さで亡くなりましたが、彼は甲府に人質に行くなど、その短い生涯の中で家康の弟として盛んに活動を行っています。

また彼の家系は、多古藩主久松家として続くこととなります。

そんな松平(久松)勝俊(康俊)の家族(妻・子供)にはどのような人物がいたのでしょうか。

ここでは、松平勝俊(松平康俊・久松勝俊)の妻と子についてみていこうと思います。

久松長家(俊勝)の妻(正室、継室、側室)と子と子孫たち
2023年の大河ドラマ『どうする家康』にて、リリー・フランキーさんが演ずることでも話題となった、家康の継父(母・お大の方の再婚相手)が久松長家(後に俊勝)です。 坂部城主、また家康の継父として家康とも協調して活動していた彼と家康の関係はなか...

松平勝俊(松平康俊・久松勝俊)の妻(正室?):大村越前守某の娘

家康の異父弟・松平勝俊の妻は実は出自がいまいちよくわからない人だったりします。

ただ「大村越前守某の娘」とのみ分かっているのですが、この「大村越前守」に該当しそうな人物がいないのですよね。

勝俊の弟にあたる定勝は奥平氏の娘(家康長女・亀姫の夫の奥平信昌の従姉妹で養女)と結婚していることがわかっているのですが、兄の康元も妻については情報がなかったりします。

家康の弟と言えど、久松家に嫁いだ女性についてはあまり記録が残されていないのかもしれません。

大村、というと肥前の武家・大村家(のちの肥前大村藩主)が思い浮かびますが、あまり結びつきがないような……?

ちなみに『寛政重修諸家譜』では肥前大村氏出身で「越前守」と名乗った人物として大村純重なる人物がいます。

大村純重は天正12~13年ごろに九州にて竜造寺氏らとやり取りしているので、もしかしたら彼のことかも……?

ただ純重は寛政重修諸家譜では、大村純治(室町時代の文明三年に亡くなる)の叔父として記載があるため、ちょっと年代的には矛盾が生じます。

といっても、大村氏の系図は結構滅茶苦茶(江戸時代に改ざんされた形跡がある?)みたいなので、実際には戦国時代後期の時代の人物だったのかもしれませんね。

とはいえど、やはり肥前の武家と三河の武家の結婚話が成立したとは考え難いですよね。

一応「大村」姓の由来などで調べてみると、応永の乱以降に肥前大村氏の一族が現在の島田市あたりに移住したとか、今川氏家臣に大村氏がいたとか、今川氏家臣だった大村弥十郎、弥兵衛が徳川氏に仕えるようになった……みたいな話があるみたいです。

そう考えると、元今川氏家臣大村氏の縁者と考えるのが適当でしょうか。

ちなみに、元織田氏配下でのちに徳川家に仕えた武将・森川氏俊の妻も「大村越前守某が女」だったそうです。

森川氏俊は勝俊よりも長生きしているので、勝俊の死後彼女が再婚した可能性もありますが、勝俊室の姉妹である可能性も捨てがたいですよね。

さて、勝俊の死後、勝俊の妻であった彼女がどうしたかは分かっていません。

夫を弔って出家したのか、再婚したのか……。当然ながら没年も不明です。

勝俊の一人娘はおそらく彼女の所生と考えられますが、母親についてまでは分かっていないので、もしかしたら未知の勝俊の側室が母親の可能性もあるかもしれませんね。

松平勝俊(松平康俊・久松勝俊)の一人娘:松平勝政正室

松平勝俊(松平康俊・久松勝俊)には、一人娘しか子がいませんでした。

弟の家系が絶えることを悲しんだ於大の方の懇願もあって、家康この娘に婿(水野氏出身、松平勝政)を迎えています。

とはいえど、勝俊死去時には彼女はまだ幼かったようで、結婚は勝俊の死から10数年もたった慶長六年(1601)のことで、夫となる勝政はすでに28歳になっていました。

結婚の翌年、勝政の嫡子となる勝義が生まれています。

しかし勝義の生母は『寛政重修諸家譜』では「某氏」となっているため、彼女の所生ではなさそうですね。勝政には他に二人の娘がいますが、この娘たちの母親もわかってはいません。

彼女を通して、勝俊の子孫がこの後続いたのかはそのため、定かではありません。

とはいえど「家」としてみるならば、勝俊を祖として勝政、勝義と多古藩主久松家は幕末まで続くこととなります。

ちなみに、家康は勝俊の死と同年の天正十四年(1586)に、勝俊の一人娘に「龗蛇頭」なる神器を与えています。父親を亡くした娘を不憫に思っていたのでしょうかね。

イマイチ意味の分かりづらい「龗蛇頭」ですが、これは文字通り「龍の頭」という伝承のある動物の頭蓋骨?のようなもので、雨乞いの権能を持つと言われていました。

彼女を経由して夫の勝政、息子の勝義、そして多古藩主家に受け継がれた「龗蛇頭」は江戸時代に実際に干ばつが起こったときに、大雨を降らせたといいます。

現在も「龗蛇頭」は、多古の地に大事に所蔵されているそうです。

タイトルとURLをコピーしました