敵(仇)と結婚した女性たち

世界史

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

日本でいえば戦国時代などは、いわゆる敵対した家の人間との結婚などはよくあることでした。
その中には親や家族を殺した人と結婚した女性たちも。
そういう時代であったとはいえ、彼女たちはどのような気持ちだったのでしょうか。

父の仇と結婚

諏訪御寮人(1530?~1555?)

彼女は諏訪大社の禰宜の家柄である諏訪頼重と、側室の小見氏の間に生まれました。
名前は戒名「乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼」から「梅」などではないか?とも言われていますが、現時点では不明です。
(小説だと「湖衣姫」「由布姫」となっていますね。)

父・諏訪頼重は彼女が10歳ごろの時に、武田信玄の妹・ねねを正室とし、寧々との間に長男寅王を儲けました。
このまま武田信玄の妹婿として生きていくこともできたでしょう。
しかし、父の頼重は信玄に反逆し、結果、自害に追い込まれてしまいます。

父の死後、彼女は武田信玄に側室として嫁ぎ、四男勝頼を産みました。

このあたりにどのような動きがあったのかは分かりません。
彼女については文書によっては「かくれなき美人」とあったため、その美貌が信玄の気を引いたのか、
はたまた彼女の身に流れる諏訪家の血を信玄が欲したのか。

勝頼は諏訪家の通字(当主などが名前につける字)である「頼」を与えられていることから、
おそらく異母弟寅王にかわる諏訪家の跡取りにするべく信玄は考えていたのでしょう。

しかし信玄は長男と敵対し、長男を殺してしまいます。次男・三男は体が弱く、武田の後継者からは外されてしまいました。
結果的に四男である勝頼が武田家の跡継ぎとなってしまいます。
そして、勝頼の代に武田家は滅びました。

諏訪御寮人は息子の死に先立つこと約30年ほど前に早逝しています。
父頼重、義母ねねなど、相次ぐ肉親の死に翻弄された一生でしたから、息子の死を見ることがなかったのは救いだったかもしれません。

諏訪御料人 父を殺した男に嫁いだ勝頼の母
戦国時代、武家の女たちはまるで道具のように、父、兄弟、家のために、他家に嫁ぎました。 嫁ぎ先、また実家でその権威を振るった強い女性たちも多くいましたが、そうでもない女性たちも、もちろんいました。 卿紹介したいのは諏訪御料人、武田家最期の...

葛城韓媛(生没年不詳)

雄略天皇の3人の妃の1人。父の葛城円は安康天皇の時代の大臣でしたが、安康天皇を殺した眉輪王をかくまったために雄略天皇に殺されてしまいます。娘の韓媛は助命され、雄略天皇の妃となり、清寧天皇と稚足姫皇女を産みました。

東向殿(1471?~1559)

戦国時代、大内氏の家臣で、長門国守護代である内藤弘矩の娘として生まれました。すくすくと成長した彼女ですが、名門の上に生まれたにもかかわらず、結婚しないまま家にいたようです。しかし、1495年、父の内藤弘矩はいきなり、主君である大内義興によって殺されてしまいました。東向殿の兄弟もまた、殺されてしまい、内藤氏は断絶の危機に瀕しました。しかしこれは、別の家臣によって濡れ衣を着せられたことが分かり、父の名誉は回復されます。内藤氏の家督は叔父の内藤弘春に無事に引き継がれました。

そして東向殿は父の名誉回復のため、6歳年下の大内義興に嫁ぎ、正室となりました。長い間男児には恵まれませんでしたが、30代後半に差し掛かったころ、義興の後継ぎとなる大内義隆を産みました。(大内義興には娘が何人かいますか、そのうちに東向殿が産んだ娘がいたかは分かりません。)

彼女の生んだ大内義隆は戦国大名大内氏の当主となりましたが、後に家臣の陶晴賢の謀反により死に追いやられます。大内氏は義隆の甥(義隆の姉妹の息子、東向殿の孫?)が継承しましたが、結局大内氏は、安芸の戦国大名毛利氏によって滅亡に追いやられました。

東向殿は息子義隆の死、戦国大名大内氏の滅亡を見届けた後にひっそりと亡くなりました。父、兄弟、夫、息子、孫……親族に死なれてばかりのその生涯の終わりが少しでも穏やかであったなら、と思います。

母の仇との結婚

淀殿(1569?~1615)

夫は言わずと知れた豊臣秀吉。彼女の母、お市の方は、再婚相手の柴田勝家が秀吉に攻められた時に、夫とともに自害しました。
ちなみに秀吉は彼女の兄(異母兄?)の浅井万福丸を処刑した人物でもあります。
彼女がその後、豊臣秀吉の妻となり、豊臣家の後継者となる秀頼を産んだこと、徳川家と敵対したこと、大坂夏の陣で攻め滅ぼされたことは非常に有名でしょう。
憎いはずの男に嫁ぎ、その男の子を生み、その男の子供のために死ぬ―秀吉に縛られ続けた一生だったのかもしれません。

夫の仇との結婚

二の丸殿(1572~1604)

毛利氏家臣児玉元良の娘。名前は周姫。幼少期より美少女であり、父の主君・毛利輝元に並々ならぬ関心を持たれていました。
成長して毛利氏家臣の杉元宣に嫁ぐが、輝元によって強奪され、側室とされてしまいます。
夫の元宣は妻を奪われたことに非常に立腹し、豊臣秀吉への直訴を企てますが、事態を重く見た輝元の叔父によって殺されてしまいます。
広島城二の丸に住んだことから「二の丸殿」と呼ばれるようになり、輝元の跡継ぎとなる長男含め二男一女を産みましたが、
毛利家の防長転封後、萩城に入ることなく、山口城下の寺で晩年を過ごしました。

中磯皇女(生没年不詳)

履中天皇の皇女で、叔父にあたる大草香皇子に嫁ぎ、眉輪王を産みました。しかし讒言によって夫が殺された後、夫を殺した安康天皇の皇后となりました。安康天皇とは意外と仲睦まじく暮らしていたようですが、実の父を継父によって殺されたことを知った眉輪王によって、安康天皇は殺されました。

眉輪王もまた、安康天皇の弟であった雄略天皇に殺されます。夫2人と我が子を失った後の彼女がどのようになったのか、史書には残されておりません。(義妹であった草香幡梭姫皇女は雄略天皇の皇后なので、彼女の援助などを受けていたかもしれませんね。)

息嬀(紀元前7世紀ごろ)

古代中国、陳国の公女。
息侯に嫁ぐが、その美貌を姉婿の蔡の哀侯が楚の文王に吹聴したために、息侯は滅ぼされ、彼女は楚の文王の妻にさせられてしまいます。
楚の文王との間に二人の子を産みますが、文王に心を許すことはなく、生涯笑わず、ほとんど口を利くこともなかったと伝えられています。

イェスイ・ハトゥン(1202以前~1226以降)

タタル部族の出身。もともと結婚していましたが、チンギス・ハーンの妻の一人となっていた妹イェスゲンがチンギス・ハーンに、
「姉のイェスイは私よりも美しい」と話したことから、チンギス・ハーンの興味を引いてしまいます。
イェスイは夫とともに逃げ出しますが、チンギス・ハーンに捕まり、その妻の一人となりました。
イェスイの夫は、チンギス・ハーンの宴に紛れ込みますが、ばれてしまい、イェスイの前で処刑されてしまいました。
イェスイはその後もチンギス・ハーンに寵愛され、チンギス・ハーンの死後はその遺産をいくらか受け取りました。

グルベス・ハトゥン(1204以前~1204以降)

遊牧民ナイマン部族の首長タヤン・カンの妻でしたが、夫のタヤン・カンはモンゴル軍との戦いに敗北、戦死してしまいます。
その後彼女はモンゴルの大ハーン、チンギス・ハンの妻の一人となりました。
息子(義理息子?)のクチュルクはモンゴルの追手から逃れ、同じく遊牧民族系の西遼の皇帝の婿となり、のちに皇帝にまでのぼり詰めます。
しかし、父のタヤン・カン同様、モンゴル軍によって殺されてしまいます。(クチュルクの孫は助命され、モンゴル帝国に仕えました。)

 

弟の仇との結婚?

エリザベス・オブ・ヨーク(1466~1503)

イングランドのプランタジネット王朝は100年戦争後半の時期にランカスター家とヨーク家に分裂、お互いに王位を争っていました。そんな中、ヨーク家のイングランド国王エドワード4世とその妻エリザベス・ウッドヴィルとの間に生まれた長女がエリザベスです。
しかし父の死後、両親の結婚が不当かつ無効であったとされてしまい、王位継承者であった弟たち二人はロンドン塔に幽閉、叔父のリチャードが王位につきます。
その後、叔父のリチャードを破って王位についたランカスター家(厳密にいうとランカスター家でもないのですが)のヘンリー7世と結婚、王妃となりました。
彼女の弟たちはロンドン塔で行方不明になっています。そして後年、彼らの骨ではないか、とされる遺骨が見つかりました。
彼らの死に関与しているのは叔父のリチャード、とされることが多いですが、もう一人の容疑者がヘンリー7世。
もしもヘンリー7世が弟たちの死に関与しているとしたら、彼女は弟を殺した男と結婚したことになります。

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