徳姫(五徳・おごとく)家康の妻と子を奪った信長の娘

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

家康の人生においては数多くの別れがありましたが、その中でも家康にとってかなり苦しい別れとなったのは、正室・築山殿と嫡子・元康を見殺しにする羽目になったことだったでしょう。

特に元康の死は相当堪えたようで、晩年、元康の死にかかわった徳川四天王の一人・酒井忠次に「お前も我が子が可愛いか」とイヤミまでいってしまったほどでした。

元康の死の理由には諸説ありますが、一説には彼の妻・徳姫(五徳・おごとく)が深くかかわっているといいます。

家康のもとに来た最初の嫁(息子の妻)でもあった織田信長の娘・徳姫はどのような女性だったのでしょうか。気になったので調べてみました。

徳姫(五徳・おごとく)は織田信長の娘、母は生駒吉乃?

岡崎殿 徳子 贈相国平信長公長女 信忠・信雄三人同腹、永禄二年己未三月二日 誕生尾州清州城、

引用:『幕府祚胤伝』

信長の娘・徳姫は永禄二年(1559)に、清州城にて生まれました。母親は信長最愛の側室とも言われる生駒吉乃だと言われています。

同腹の兄弟には、信忠、信雄がいます。異母姉には蒲生氏郷に嫁いだ相応院(冬姫とも)がおり、彼女は信長の次女として生まれました。

彼女は生駒吉乃の産んだ末子であり、信長の嫡男・信忠の同母妹でした。そのことも相まってか、信長からはかなり目をかけて育てられたようです。

異母姉と考えられている相応院よりも先に婚姻が決まっているのも、その現れでしょう。(相応院は永禄十二年、徳姫よりも2年遅れで結婚しています。)

徳姫(五徳・おごとく)の名前の読みは?意味は?

徳姫の名前はそのまま「とくひめ」と読むようです。

当時の人からは「おごとく」と呼ばれ、その場合漢字では「五徳」と表記したようです。(五徳・おごとくの名前はもしかしたら幼名かもしれませんね。)

五徳と言えば、囲炉裏の上において鍋などを設置するために使う器具のことですよね。今でいうなら「コンロ」みたいな名前でしょうか。

彼女の兄弟達の名前も「奇妙」や「茶筅」だったりするので、信長の奇矯なネーミングセンスが発揮された名前のように思われます。

ちなみに、『織田家雑録』では、「信忠・信雄・五徳の3人が鼎の足になって織田家を支えて欲しいと五徳と名付けた」といった記述があるそうです。

ただ女子であった五徳が異母姉・相応院や異母兄・信孝らを差し置いてまでそこまで重要視されていたのか……?という疑問もあるので、どこまで信用して良いのかは不明です。

徳姫(五徳・おごとく)の夫は松平信康(徳川信康)

同六年癸亥、縁約、同十年丁卯五月二十七日、入輿岡崎、被婚姻、共九歳、使者佐久間右衛門尉信盛、

引用:『幕府祚胤伝』

徳姫は幼女のうちに織田信長の重要な同盟相手であった松平元康(徳川家康)の嫡男・信康との婚姻が決定します。

彼女は永禄十年(1567)、9歳の時に岡崎城に入り、松平信康の妻となりました。

お互い9歳だったといいますから、当初は夫婦というよりは幼馴染のような二人だったのではないでしょうか。

結婚時幼かったこともありますが、結婚してから10年ほどたって、徳姫は信康の子を出産します。

天正四年(1576)に徳姫は信康の長女・登久姫を、翌五年(1577)に信康の次女・国姫(熊姫とも)を徳姫は産むことになります。

しかしその後、彼女は妊娠することはありませんでした。

夫信康はこのころには側室を取っていたようですから、男子を産まない徳姫とは少しばかり疎遠になりかけていたのかもしれません。

彼女はこのころまだ20歳にもなっていませんから、夫との関係に隙間風が噴き出していたのは大層耐え難いことだったでしょう。

徳姫(五徳・おごとく)と姑・瀬名(築山殿)の関係は?

徳姫(五徳・おごとく)と姑にあたる家康正室・瀬名(築山殿)との関係はあまり良いものとは言えなかったでしょう。

瀬名(築山殿)は、なかなか徳姫に男子が生まれなかったのを心配していたようです。

築山殿自身は、結婚してから2年ほどで嫡男・信康を産んでいたこともあり、結婚してから10年ほどたつ息子夫婦に娘しかいないことを危惧したのでしょう。

また、瀬名(築山殿)の不安定な立場もあったでしょう。

当時、瀬名(築山殿)は家康と別居状態にある(瀬名は岡崎、家康は浜松に居ました)上、実父も今川氏真によって自害を強いられ帰る実家もないという状態でした。

彼女には、家康嫡子・信康の母という立場しかなかったのです。

この状態で、信康の身に不測の事態が起これば……。さらに瀬名の立場はなくなります。

しかし、信康に男子がいれば、家康の後継者の祖母として彼女の立場はまだ維持されることになります。

瀬名(築山殿)がそのために、嫁にあたる徳姫にさらなる男子出産を迫ったこと、また徳姫が生まないのならば……と側室選定を行ったのはある意味必然かもしれません。

そもそも、瀬名(築山殿)の実家は今川方、徳姫の実家は織田家です。いずれにせよ、この姑と嫁の間柄が良くなるはずもないのです。

徳姫(五徳・おごとく)の侍女・小侍従

あまりに御夜かれもかさなり行ば、流石御物妬みの思ひやるせなく恨みかこち給ふ此事小侍従といって北方の御方に宮仕する女房告奉りて北方の御恨深きよし聞召物荒き血気の大将怒気忽に猛火の如く直に北方の御方へわたらせ給ひ北方見給ふ前にて小侍従が髪をとらへ御膝の下へ引伏せ給ひ汝は夫婦の中を妨る曲者思ひ知らせむと氷の如き御腰刀を引ぬきて水もたまらず切て捨口に御手を入て引さき給ふ

引用:『改正改正三河後風土記』

江戸時代の天保八年に完成した『改正改正三河後風土記』によると、松平信康は徳姫の侍女・小侍従を惨殺したといいます。

小侍従は主人である徳姫と信康が疎遠になって徳姫が悲しんでいることを話していたのですが、それを聞いた信康は怒り狂い、徳姫の目の前で小侍従を切り捨てた後、彼女の口をつかんで引き裂いたといいます。

もしも本当ならとんでもない怪力ですね。

実際のところ、このようなことがあったのかはよく分かりません。

当時の女性は嫁いできても実家と縁深く、時には嫁ぎ先を裏切ることがあったように、実家からついてきた侍女もまた同じような働きをしました。

もしも小侍従が殺されたのだとしたら、織田方と不審なつながりをしたことをとがめられた……というのが一番ありえそうな理由に思われます。

徳姫(五徳・おごとく)の手紙(訴状)~十二ヶ条の訴状~

信康君あしき御ふるまいも築山殿のまさなき事ども委しく御文せ給ひ父右大臣殿の方へひそかに奉り給ふ

一 築山殿悪人にて三郎殿と吾身の中をさまざま讒して不和し給ふ事

一 我身姫ばかり二人産たるは何の用にか立ん大将は男子こそ大事なれ妾あまた召て男子を設け給へと築山殿すすめにより勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し殿妾にせられん事

一 築山殿甲州の唐人医師滅敬といふ者と密会せられ剰へ是を便とし勝頼へ一味し三郎殿をすすめ甲州へ一味せんとする事

…(後略)…

引用:『改正改正三河後風土記』

いずれも江戸時代に作られた書物ですが、『改正三河後風土記』や『三河物語』などによると、徳姫は父・信長に十二条からなる訴状を送ったといいます。

その内容は、築山殿の陰謀で自分たち夫婦は不和にさせられた、築山殿は医師と密通している、築山殿は武田と通じている、信康は徳姫の侍女・小侍従を殺した、信康は踊り子の衣装が悪いと踊り子を殺した、信康は僧侶を殺したなどといったものでした。

内容からして、おそらくすべては本当のことではなく、後世の創作だとされています。訴状の内容について書かれているものは、いずれも江戸時代の著作ですからね。

信長の伝記である『信長公記』や『安土日記』などにはこの訴状の内容に記述はありません。また家康の同族である松平家忠の『家忠日記』でもこの訴状については言及されていません。

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徳姫(五徳・おごとく)と家康の関係

家康の正室、そして嫡男・信康の死にもかかわったとされる徳姫(五徳・おごとく)ですが、家康との関係性はよく分かりません。

信康との結婚時には、家康は信康とともに岡崎城に住んでいました。

しかし、家康はすぐに浜松に移り住んだため、同居期間はかなり短かったようです。

徳姫は信康の死後は実家の織田家に戻ることになりますが、岡崎から安土へと出立する際には家康が見送りにいったことが記録に残っています。

しかしその際にどのような会話がなされたのかどうかは残っていません。

徳姫は父亡き後、兄の信雄、母方の生駒氏、関白秀吉、そして最終的には家康の四男・松平忠吉(信康の異母弟)などの世話になったようです。

しかし、家康は直接彼女の世話をすることはなかったようです。家康としても、彼女に対しては微妙な気持ちがあったのかもしれません。

徳姫(五徳・おごとく)は再婚しなかった

徳姫は信康との死別後、再婚することはありませんでした。

天正八年(1580)に実家に戻ったその2年後に父・信長が亡くなったこともあり、再婚の話がまとまることはなかったのかもしれません。

信長の後継者・信忠の同腹の妹ということもあり、結婚相手次第では織田家復権につながりかねないということもあり、秀吉が許さなかった可能性もあるでしょう。

あるいは彼女自身、もうこりごりだったのかもしれませんね。彼女は京にて独身生活を満喫したようです。

徳姫(五徳・おごとく)の晩年と最期は?

信康公自裁後、久在京師烏丸中御門之南、油小路共、棲洛中間、於尾州岩倉二千石被進、寛永十三年丙子正月十一日、於京卒去、年七十八、葬紫野大徳寺中総見院、一天瑞寺、法名見星院香岩寿桂大姉、

引用:『幕府祚胤伝』

徳姫は長生きし、舅家康、娘登久姫、娘国姫らを見送った後、京にて亡くなりました。

死因については分かりません。年齢を考えるならば、何らかの病気に罹患したものの思われます。

彼女の墓は信長の菩提寺でもある大徳寺・総見院にあります。義母にあたる信長正室・濃姫や信長の側室・おなべの方らと並んで葬られました。

徳姫(五徳・おごとく)の性格は?

徳姫の性格は、かなり苛烈なものであったのは間違いないでしょう。

当時としては当たり前であった側室を許さなかったこと、侍女を殺されたことを泣き寝入りすることなく父に伝えることが出来るほどには、気丈な女性であったと思われます。

徳姫の叔母にあたるお市の方は、夫・浅井長政の裏切りを兄にそれとなく伝えるなど、実家のために動いた女性でした。

前述の瀬名(築山殿)の武田家密通疑惑が本当であったならば、もしくは徳姫は本当だと信じていたのなら、徳姫も実家・織田家を大事に思っていた女性だったともいえるでしょう。

徳姫(五徳・おごとく)は美人だったのか?

徳姫の容姿がどのようなものだったのかは伝承に残っていません。

ただ彼女の孫にあたる小笠原忠脩(登久姫の息子)や本多忠刻(国姫の息子)らは美男で有名でした。

孫二人に美男の評判が残るくらいですから、祖母にあたる徳姫の容姿がさほど悪いものであったとは到底思われません。

徳姫の叔母・お市の方や従妹・茶々(淀君)なども美女の評判が高いですね。

親族関係に美男美女が多いことを考えると、それなりに美人であった可能性は高いように思われます。

徳姫(五徳・おごとく)の子供たちと子孫

徳川家とは縁が切れていた彼女ですが、徳川家に残してきた娘(登久姫、国姫)らとはつながりがあったようです。

登久姫は小笠原家に嫁ぎ、国姫は本多家に嫁ぎます。国姫の息子・本多忠刻は徳川秀忠長女で豊臣秀頼正室であった千姫の再婚相手としても有名ですね。

彼女の血筋は小倉藩主小笠原家、郡山藩主本多家、延岡藩主有馬家、徳島藩主蜂須賀家、岡山藩主池田家などに伝わりました。ちなみに天皇家にもつながっています。

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜もまた、女系で徳姫の子孫にあたります。

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