甲斐の虎とも呼ばれ、勇猛果敢な戦国大名の代表格としても名をあげられるのが武田信玄です。
上杉謙信との川中島での幾度もの戦にはじまり、若き日の家康に三方ヶ原での苦い敗戦を味合わせ、もう少し長生きしていれば信長たちをも退け天下統一を成し遂げていたかもしれない、戦国時代きっての傑物だったともいえるでしょう。
その一方、彼は父を追放し、嫡子を死に追いやり……結局、彼の死後に待っていたのは、急遽後継者にした庶子の四男・勝頼の代での武田家滅亡という無残な結果ではありました。
この記事では、武田信玄の妻(正室・継室・側室)にどのような人物がいたのかをまとえています。
武田信玄の妻(正室・継室・側室)について気になる人は、ぜひこちらの記事を読んでみてください。
武田信玄の正室:上杉の方
武田信玄が最初に妻としたのは、扇谷上杉家当主上杉朝興の娘でした。
いわゆる関東管領上杉家の流れをくむ女性で、甲斐武田氏嫡流・信玄(当時は晴信ですね……)の妻としてはとても似合いの女性であったでしょう。
信玄に幾人もの妻たちがいたのは知っていても、おそらく彼女のことを知らない人も多いのではないでしょうか。
多分多くの人が信玄の正室だと想像する三条の方の前に、実は信玄は別の女性と結婚していたのですね。
彼女と信玄の結婚は信玄の元服前、天文ニ年(1533)に行われました。
若夫婦はとても仲が良かったようで、すぐに子供ができました。
しかし翌天文三年(1534)、上杉の方は信玄の子を死産したのちにそのまま産褥にて亡くなります。
彼女の死後、信玄は次第に父と敵対を深め、三条の方との再婚後の天文十年には、父信虎を甲斐国から追放しています。
彼女と彼女の子の死が、若き日の信玄の心もまた殺してしまった……というのはさすがに言い過ぎかもしれませんね。
とはいえど産褥でのこの妻の死が影響したのか、信玄は三条の方腹の長女・黄梅院が関東の後北条氏に嫁いだ後に、たびたび安産祈祷を行わせています。
武田信玄の継室:三条の方(三条夫人とも)
一般に武田信玄の正室として想像されるのが、彼女・三条の方でしょう。
彼女の子が武田氏の後継者となることがなかったためか、公家出身でお高くとまっていた信玄と不仲だったとか、勝頼生母の諏訪御料人と敵対していたとかいろいろいわれがちですが、別に彼女は信玄と不仲ではありませんでした。
三条の方は、信玄が上杉の方と死別した2年後、元服を終えた信玄の継室として甲斐国に嫁ぎます。
彼女の実家・三条家は清華家、公家では摂家に次ぐ名門であり、そんな女性がなぜ名門とはいえ戦国大名の家に嫁いだのか?と疑問に思う人もいるかもしれませんね。
この婚姻は当時、武田氏と縁戚(信玄の姉は今川義元正室)であった今川家の当主夫人(今川義元母)は、やはり公家の中御門家の出身であり、彼女と今川家が仲立ちして成立したのでは、と言われています。
ちなみに三条夫人の姉は室町幕府管領・細川晴元の前室で、妹・如春尼は義兄の養女として本願寺に嫁いでいるため、三条家は結構武家ともかかわりが深かったようですね。
三条の方と信玄の間には3男2女が生まれています。しかし、なぜか三条の方の産んだ子供たちは悲劇に見舞われてしまいます。
長男義信は信玄の後継者とみなされ、今川義元の娘と結婚しますが、父信玄と敵対したことで自害に追いやられてしまします。
次男の信親は、盲目のため戦国大名武田氏の家督を継ぐことはできず、後に海野氏の家督を継ぎました。
ちなみに後世、この次男の血筋から高家武田氏が生まれていますので、そこはささやかな希望かもしれませんね。
三男の信之は幼くして亡くなります。
長女・黄梅院は後北条氏の嫡子・北条氏政に嫁ぎますが、甲相駿三国同盟の破綻(父信玄の駿河国侵攻などの結果)により離縁となり、その後すぐに亡くなります。
次女・見性院は穴山梅雪(穴山信君)に嫁ぎます。
三条の方の生前、唯一この娘のみが悲劇を免れていましたが、三条の方の死後、彼女の夫・梅雪は武田氏を裏切ります。
穴山梅雪(穴山信君)は見性院との間に生まれていた信玄の孫にあたる勝千代を滅亡後の武田氏の後継者に擁立しますが、梅雪は本能寺の変の余波で横死、さらに勝千代も早世します。
ちなみに三条の方の父・三条公頼は公家を庇護していた山口の戦国大名・大内義隆のもとに身を寄せていましたが、大内義隆の家臣・陶晴賢が謀反を起こした際に亡くなっています。
妹の如春尼も、夫の顕如が信長と石山合戦でやりあって大坂の地を追放されていることを考えると、三条の方の身内の不幸率の高さがうかがえますね……。
しかも長男・長女の不幸に関しては夫がやらかした結果ですからね、なかなかやりきれなかったかもしれません。
とはいえど、三条の方と信玄は離縁することもなく、夫婦としては平穏に過ごしたようです。
三条の方は信玄に先立って亡くなりますが、その死因は信玄からうつされた結核だった(ちなみに諏訪御料人も結核による死亡説があるので、当時の甲斐の上流階級ではやっていたのですかね???)といいます。
武田信玄の側室:諏訪御料人
よくドラマなどでは武田信玄最愛の側室ともされる彼女。
悲劇の最後の当主・勝頼の母であり、そして信玄によって自害に追いやられた諏訪頼重の娘、というドラマ性のせいかもしれませんね。
信玄の側室となったときはまだ10代前半だったと思われる彼女は、10代半ばにして勝頼の母親となりました。
信玄は当初自身の甥(諏訪御料人の異母弟で、諏訪頼重と異母妹・禰々の間の息子・寅王)を諏訪氏の当主に立てようとしていました。
しかし、勝頼が生まれた後は甥よりも実子だ!とばかりに勝頼に、諏訪氏の通字「頼」を与えて諏訪氏の後継者に立てています。
勝頼が武田氏当主でありながら武田氏の「信」を名前に持たなかったのはこの微妙な立場が影響しているわけですね……。
ちなみに諏訪御料人には勝頼以後子供が生まれていませんが、もしかしたら信玄からしたら諏訪氏の血をひく男児を産む、という役割だけ求められていたのかもしれませんね。
彼女自身は勝頼が異母弟を差し置いて、諏訪氏の後を継ぐことに対してどう思っていたのでしょうね。
諏訪御料人は勝頼が武田氏当主になることも、その結果非業の死を遂げることを知ることもなく、若くして亡くなってしまいます。
武田信玄の側室:油川夫人
もしも信玄最愛の女性は誰か?という問題があったとしたら、実はひそかに候補に挙がりそうなのがこの「油川夫人」ですね。
彼女は信玄との間に3男1女(3男2女とも)を儲けており、正室三条の方と同じくらい、多くの子を残しました。
他の側室はみな「御寮人(御料人)」と呼ばれているのに対し、彼女は基本「夫人」と呼ばれているのは、油川夫人の出自が影響しているのかもしれません。
というのも、彼女は実は信玄の遠縁、信玄の祖父の弟の孫なのですね。信玄からするとはとこになるのでしょうか。
信玄からしても、元をたどれば同じ武田一族の親戚ということもあって、気安い関係だったのかもしれません。
信玄よりもやや年下だったと思われる彼女ですが、信玄に先立って亡くなっています。
武田一族の非業の滅亡を知ることはなかったのは、幸いだったのかもしれませんね。
武田信玄の側室:禰津御寮人
信玄は諏訪氏を平定した際に、やはり諏訪氏の同族であった禰津氏も服属させています。
禰津氏服属後に禰津氏から信玄の側室として輿入れしたのが禰津御寮人でした。
しかし、実は彼女、諏訪氏との深いかかわりゆえに「諏訪御料人=禰津御寮人」だったのでは……?という説もあったりします。ややこしいですね。
一応、諏訪御料人とは別に、諏訪御料人の死後の永禄三年(1560)に信玄の末息子・信清を産んだ禰津御寮人(禰津氏出身の側室)がいるのは間違いないようです。
信玄の中年期に息子を産んでいることから考えると、おそらく信玄よりはかなり年下、油川夫人よりも年下であったのではと思われます。
禰津御寮人がこれ以後、いつまで生き延びたのかはわかっていません。
もしかしたら武田氏滅亡のごたごたに巻き込まれて大変な目に合っていた可能性も否定はできませんね。
ただ、禰津御寮人の産んだ六男・信清は異母姉・菊姫(上杉景勝正室・油川夫人と信玄の娘)をたよって上杉家家臣となり、平穏に生涯を終えることが出来ました。
信玄の息子たちが病魔や、武田氏滅亡に巻き込まれて討ち死になど悲惨な死を遂げているのとは対照的に。
信玄の側室:不詳
信玄の側室として知られているのは、上記の3名(諏訪御料人、油川夫人、禰津御寮人)ですが、信玄には他にも側室がいたのでは……と言われています。
上記の3人に該当しない伝・信玄側室の墓などが残されていますしね。
また、熊本藩細川家の家臣・岩間六兵衛は信玄の孫(六男信清、あるいは長男義信の子とも)と言われていますが、あるいは岩間氏に嫁いだ信玄の娘の子ともいいます。
そうだとすれば信玄には母親の分からない娘がもう一人いたことになり……。
信玄の三女・真理姫も生母は油川夫人、あるいは三条の方どちらかわかっていません。真理姫の母親がこの両者どちらでもないという可能性もゼロではないですよね。
信玄の妻たちは、没年の分かっていない禰津御寮人以外はすべて信玄に先立って亡くなっています。妻を失った信玄が新たに側室を求めた、というのはありそうな話に思われます。