八田知家は源義朝の落胤なのか?またあの小田氏治との関係性は?

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では市原隼人さんが演じることでも注目されている八田知家。

「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーの中でもおそらく一二を争うほど謎に包まれた人物でもあります。

そんな謎多き八田知家について調べてみました。

八田知家の父親は源義朝?

さて、八田知家の出自について一般的に言われているのは、下野の宇都宮氏の八田宗綱の息子であるということと、頼朝の乳母である寒河尼の弟(義理の弟?)であるということです。

しかし、実は八田知家の父親は宇都宮氏ではないのではないか?という説があるのです。

その説によると、八田知家は、八田宗綱の孫娘である八田局が、さる高貴な武人と通じて生まれた子だといいます。そしてその武人の名前は……源義朝。

つまり、八田知家は義朝の落胤(一説には義朝の十男)だというのですね。つまり頼朝の異母弟だということになります。

義朝は三浦義澄の姉妹を側室に迎え、長男悪源太義平を儲けたと言われるなど言われていますから、下野国に勢力を築いている八田宗綱の一族が義朝に娘ともども近づいた……というのはさもありなん!という感じではありますね。

ただ、これはそこまで信ぴょう性は高くないような気がします。というのも、八田知家は、保元の乱(1156)に源義朝方として出陣していたようなのです。

ちなみに保元の乱のころ、源義朝三男である頼朝は満年齢9歳、八田知家が保元の乱で出陣していたのが事実であるならば、どう考えても頼朝よりも年上になるでしょう。そう考えると、源義朝十男と言うのはありえません。

八田知家は鎌倉幕府草創期にはすでに中年に差し掛かっていたようで、息子の知重を自身の代理に奉公させることもあったようです。それらのことから考えても、やはり八田知家は、頼朝の弟とは考え難いです。

八田知家と名門・常陸小田氏と戦国大名・小田氏治

八田知家には多くの子供がいましたが、彼の長男知重は、常陸国小田城を拠点とし、小田を名乗りました。

もともと下野宇都宮氏出身である八田知家は、曽我兄弟の敵討ちに乗じて常陸国の有力武将・多気義幹を失脚させており、その後に常陸国に入って勢力を築いていました。

八田知家の嫡男知重は、父親から常陸の所領を譲り受けたのですね。

彼の子孫には「戦国時代最弱の大名」などと揶揄される小田氏治がいます。

最弱なんて言われていますが、その割には何度も小田城を奪回するなどしているので、そこそこに頑張っていた感はありますけれど……。

氏治は最終的には小田城を失い、さらに豊臣秀吉に仕えることも許されなかったため、娘の駒が側室として嫁いでいた徳川家康の次男・結城秀康のもとに身を寄せています。

始祖の八田知家も、姉寒河尼の縁もあり頼朝に重用されたといいますが、子孫の彼も娘によってなんとか安住の地を手に入れた……というのがなんか面白いですね。

八田氏の一族は女性に助けられる一族なのかもしれません。

ちなみに、氏治の庶子である友治は、小田氏ではなく、先祖に由来する八田氏を名乗っていました。

八田知家の妻と子たち
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、主人公の北条義時はもちろん、そのタイトルにもなっている「13人の合議制」のメンバーがフィーチャーされる可能性が高いでしょう。 「13人の合議制」メンバーには北条義時、北条時政、梶原景時、比企能員など鎌倉幕...

八田知家の家紋は巴紋?

八田知家がどのような家紋を使っていたのか、実は正確なところはよく分かりません。

武士たちの間で家紋が定着したのは鎌倉時代以降のことですから、彼自身は家紋を持っていなかった可能性もあります。

ただ、八田知家の出身氏族である宇都宮氏は「右三つ巴」を使っていました。また、八田知家子孫の小田氏は巴紋から派生したとも考えられる「州浜紋」を用いていました。

これらのことから考えると、八田知家が家紋を使っていたのなら、おそらく巴紋を用いていた可能性が高いでしょう。

八田知家の死因は?

八田知家は建保六年(1218)三月三日に亡くなっています。

翌年の、三代目将軍実朝の非業の死を見ることがなかったのは幸いだったかもしれませんね。

ただ彼の死因がどのようなものだったのかはよく分かっていません。

八田知家の死について、なぜか『吾妻鏡』には記載がないため、死の前後の様子が全く分からないのです。同じ年の4月、千葉成胤の死についての記事はあるのですが……。

保元の乱(1156)に出陣をしていたことなどから考えると、亡くなった当時かなり高齢だったこと、時期的にさほど関東で動乱らしきものはなかったことなどを考えると、おそらく年老いてから何らかの病気で亡くなった可能性が高いように思われます。

すでに息子たちに実権も譲った後で、隠居のような状態だったため、あまり話題にはならなかったのかもしれませんね。

八田知家のお墓はどこ?

八田知家のお墓は、茨城県笠間市にあります。このお墓は、八田知家の四男の家系である宍戸氏の子孫によって、江戸時代の明和六年(1769)に作られたものです。

このお墓を作った一木理兵衛の先祖は、もともと宍戸氏を名乗っていましたが鎌倉公方によって武蔵国一木郷を与えられ、一木を名乗ったそうです。

ちなみにこのお墓、八田知家を演じることになった市原隼人さんもお参りしたんだとか。

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