豊臣秀吉の子供は鶴松・秀頼だけだったのか?豊臣秀吉の子供たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

豊臣秀吉には十数名の側室がおり、そして一説には数百人以上の女性と関係を持った……と言われています。

しかし、彼の子供として歴史に名前を残しているのは側室・淀殿との間に生まれた大坂夏の陣にて自害に追い込まれた息子・秀頼、そして同じく淀殿との間に生まれ、夭折した鶴松の二人のみです。

鶴松、秀頼が生まれたときにはすでに秀吉は老人であり、そのことから秀頼は本当に秀吉の実子なのか……?淀殿が別の男性との間に儲けた子供では……?なんて話も昔からささやかれてきました。

しかし実は秀吉には秀頼、鶴松以外にも子供がいたのでは?という説があります。

公の歴史では出てこない、秀吉の隠された子供たちについて調べてみました。

豊臣秀頼の側室たち
豊臣秀吉の息子、秀頼。 2代目将軍・徳川秀忠の娘を正室に迎えるなど、徳川家との融和もはかりますが、徳川家康の警戒をかわすことができず、最終的に大坂冬の陣・夏の陣で、母の淀殿ともども、その生涯を終えました。 さて、そんな秀頼の正室が徳川秀...

豊臣秀吉には秀頼・鶴松以外にも子供がいたと言う話がある

秀吉は織田政権下・長浜城主であったときに側室との間に子供を儲けていたのでは?という説があります。

というのも、長浜城主時代に、近隣の名刹・竹生島宝厳寺に秀吉は寄進をしているのですが、その記録の中では、正室・ねね、母・大政所(なか)に続いて、「石松丸」という子供の名前が登場するのです。

秀吉の妻、母に続いて登場するこの子供は、秀吉の子供なのでは?と古くから言われてきました。

豊臣秀吉の子供?:羽柴秀勝(石松丸)

竹生島への寄進の記録の中で登場する子供「石松丸」は、「羽柴秀勝」という諱を持っていたと言われています。

この諱は丹羽長秀、柴田勝家という織田家の宿老たちの名前を偏諱したもの(秀吉自身、丹羽長秀から偏諱を受けていますし、羽柴という苗字自体も丹羽・柴田からの偏諱ですね)です。

生まれたのはいつ頃かは分かりませんが、伝承では天正二年(1574)頃ではないか?と言われています。

伝承によると秀勝(石松丸)は、天正四年(1576)十月十四日に亡くなったといいます。

奇しくも後に生まれた鶴松のように、彼もまた幼くして亡くなりました。

もしも石松丸が生き延びていたならば、秀吉没時にはすでに20代半ばとなっていますから、豊臣の世は続いたのかもしれませんね。

秀吉はこの息子・秀勝が忘れがたかったのか、その後迎え入れた養子たちにも「秀勝」の名前を与えています。

秀吉は養子に迎え入れた織田信長の四男、甥(姉ともの子供)たちにも「秀勝」の名前を与えましたが、残念ながら彼らもまた若くして亡くなりました。

ちなみに甥であった秀勝(幼名から「小吉」秀勝とも呼ばれています)は、若くして亡くなりましたが妻・お江(浅井長政三女、淀殿の妹)との間に娘・完子を儲け、完子の嫁ぎ先・九条家にその血をつなげています。

秀吉自身の血筋(秀頼の血筋)は徳川幕府によって断絶させられましたから、皮肉にも甥・秀勝の血筋が豊臣の血を後世につないだ形となりますね。

さて、話は変わりますが、この秀勝(石松丸)、母親が誰だったのかは分かっていません。

秀勝(石松丸)の母親ではないか?と言われているのは。先述の竹生島への寄進の記録から「南殿」と呼ばれる側室だったのでは?ともいわれていますし、また石田三成の縁者であった浅井家家臣の娘・お葉の方では?とも言われています。

豊公の嫡子にして、天正二年豊公の側室京極松の丸の生む所、天正四年十月十四日三歳を以て、此地に夭世した

引用:『豊公余韻』中、近江妙法寺寺伝より

また一説には秀吉最愛の側室との声も名高い京極竜子(松の丸、名門京極家の姫君で淀殿の従姉)では?という説もあります。

しかし、天正二年ごろは、竜子が前夫・武田元明とまだ結婚していた時期のはずなので、信ぴょう性は低いようです。

いずれにせよ、正室・ねねではなく、秀吉の側室の誰かであったことは間違いないようです。

秀勝(石松丸)の死後、彼の生母であった側室がどうなったのは不明です。

ただ彼女は大阪城に赴くことはなく、また天下人となった秀吉から重んじられることもなかったようですね。

豊臣秀吉の子供?:娘

上述の石松丸の母親だったのでは?と言われている側室の南殿は、石松丸が亡くなった天正四年(1576)に、秀吉の娘を産んだとも伝わります。

しかしこの娘もまた、成長することなく幼くして亡くなりました。

この娘が亡くなった後、南殿は秀吉のもとを辞して、宝厳寺にて尼僧になったといいます。

もしも南殿がその後も秀吉のそばに仕え続けていたのなら、秀吉には鶴松・秀頼の誕生よりも早く後継者が生まれていたかもしれませんね。

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