竹殿 北条義時と姫の前の間に生まれた娘

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

北条義時には何人か娘がいたと言われていますが、その娘たちの多くは母親が分かっていません。

母親が分かっているのは、継室・伊賀の方との間に生まれた、一条実雅に嫁いだ娘と、もう一人、正室・姫の前との間に生まれた「竹殿」なる娘一人のみです。

北条義時の娘の中で、唯一当時の呼び名が分かっているのは、この竹殿のみでした。

義時の娘として歴史に翻弄された姫君・竹殿についてご紹介します。

竹殿は北条義時と正室・姫の前の間の娘

竹殿は、北条義時と正室・姫の前の間に唯一の娘として生まれました。

竹殿の同母兄弟は、名越朝時、のちに連署となる北条重時(極楽寺重時)です。

年の離れた異母兄に、父と阿波局の間に生まれた北条泰時がいました。

竹殿の生年は分かりません。

ただ、母・姫の前は建久四年(1193)に名越朝時を、建久九年(1198)極楽寺重時を生んでおり、また元久元年(1204)に異父弟となる源輔通を産んでいます。

このことを踏まえて考えるならば、建久五年~八年(1194~1197)、もしくは正治元年~建仁三年(1199~1203)あたりの生まれだといえるでしょう。

いずれにせよ、彼女のターニングポイントとなる承久三年(1221)には、まだ20代、下手すれば10代という若さだっただと思われます。

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竹殿の結婚相手は大江広元の嫡子・大江親広

女子 号竹殿 民部少輔親慶(広)妾 後又内大臣定通公妾

引用:『尊卑分脈』

さて、成長した竹殿は大江広元の嫡子・大江親広に嫁ぐことになりました。

この結婚についてはあまり記録が残っておらず、いつのころのことなのかもよくわかっていません。

しかも、執権・北条義時の娘であるはずの彼女は、なぜか親広の「側室(妾)」であったと伝わります。

北条家の娘であれば、正室がいたとしても離縁させて継室として嫁いでいそうですが……なぜ?

ただ親広にはどうも正室となりそうな有力な妻もいなかったようですから、側室であったとしても正室格であったことは間違いないでしょう。

彼女と親広の間には子供は生まれなかったようでした。しかし、親広は竹殿との婚姻関係もあってか、北条氏とはかなり関係が深かったようです。

北条義時の再婚相手(伊賀の方)の兄にあたる伊賀光季ともども、京都守護にも任ぜられていました。しかし、このことが親広の運命をゆがめることへとつながるのです。

親広は承久の乱で、父広元、そして我が子である佐房とも敵対してまで、後鳥羽上皇方についたのです。

結局、親広は父・広元、長男佐房、そしておそらく竹殿の懇願などもあってか、殺されることはありませんでした。

……が、大江広元の嫡子の座は外れ、鎌倉から遠く離れた出羽国寒河江荘にて隠居状態に追いやられることとなります。

そして、竹殿とも離縁することとなってしまいました。

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竹殿の再婚相手は土御門定通

土御門顕親 使別当権中納言従二(三イ) 母平義時女 建長七四十二出家契圓

顕雲 山 権僧正●義 大塔僧正 母同顕親

引用:『尊卑分脈』

竹殿の再婚相手は土御門定通でした。

前夫の大江親広はかつて定通の義兄弟(親広はかつて定通の父・土御門通親の猶子となっていました)でもありましたから、前夫の縁者と再婚したということになりますね。

また、定通は土御門天皇の叔父(土御門天皇の母・承明門院の異父弟)でもありました。

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この婚姻、いろいろと不思議な点も多くあります。1つは婚姻時期です。

通説では、竹殿所生という土御門顕親は貞応元年(1222)生まれで、竹殿は承久の乱の直後に親広と離縁、すぐさま土御門定通と再婚したということになります。

しかし、実は、顕親は、承久の乱の前の承久二年(1220)生まれであるという説もあるのです。

そうだとすると、実は竹殿は承久の乱以前にすでに親広と離婚して、定通と再婚していたということになるのですが……実際のところはどうなのでしょうね。

また、竹殿の再婚のもう一つ不思議な点は、なぜ承久の乱の敗者の縁者(後鳥羽院の子で父に連座して流罪になった土御門天皇の叔父)と再婚したのか?ということですね。

もしも承久の乱以前の再婚なら、あまり気にならないところではありますが。

六波羅探題として京に入っていた兄・泰時の指示でもあったのか、それとも竹殿自身の意思での再婚だったのか?

しかも、この婚姻もまた「妾」、つまり側室としての扱いだったようですから、尚更不思議な印象を受けます。

とはいえど、竹殿は定通との間に少なくとも二人の男子を産み、また定通と鎌倉をつなぐなど、定通の正室同然の立場ではあったようです。

彼女がいつごろ亡くなったのかはよく分かっていません。

ただ少なくとも、定通の大甥にあたる後嵯峨天皇(土御門天皇の皇子)の即位した仁治三年(1242)までは存命だったようです。

ちなみに、後嵯峨天皇は定通の姪かつ義妹にあたる女性の子(定通の異母兄・源通宗の娘の所生)でもあり、定通の屋敷で庇護していたこともあったようです。

御嵯峨天皇即位には、鎌倉幕府の推挙があったことが知られていますが、もしかしたら幕府のその決断の背景には、竹殿も影響していたのかもしれませんね。

竹殿の子孫

竹殿の子孫には、系図上は、孫の土御門顕俊(土御門顕親の息子)などがいたようです。

ただこの顕俊は、実は同族の土御門雅方の息子で、顕親の養子だったようですね。

顕俊には息子・俊方がいたという系図もありますが、俊方以降の子孫は知られておらず、どちらにせよ顕親の家系は途絶えたようです。

竹殿の次男で、出家していた顕雲に子供がいたかは分かっていません。

僧侶ではありますが、もしかしたら非公式に妻帯していた可能性はありますので……。ただ系図上は、彼に子はいなかったようです。

ちなみに竹殿の子としては、土御門顕親、顕雲が知られていますが、生母不明の定通の三男・土御門顕良も竹殿所生では?という説があります。(『新訂増補国史大系公卿補任』によると「母同顕親」とのこと。)

もしも土御門顕良も竹殿所生なら、顕良の一人娘である「一条摂政北政所」なる女性もまた、竹殿の孫のようです。

年代を考えるならば、おそらく一条摂政とは「一条家経」(1248生)の可能性が高いですが、彼の妻の中には顕良の娘に該当するような人物はおらず、詳細は不明です。

もしかしたら家経の生母不明の子たち(いずれも僧侶)の母親の一人が、土御門顕良の娘なのかもしれません。

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