大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、坂口健太郎さんが演じることが発表された北条義時の息子・北条泰時。
「御成敗式目」制定や、得宗家の確立などで名前が良く知られていることかと思います。
そんな北条泰時の妻(正室、側室)には誰がいるのでしょう?気になったので調べてみました。
北条泰時の正室(前室):矢部禅尼
矢部禪尼〈法名禅阿〉、賜和泉國吉井郷御下文者前遠江守盛連、依令讓附也彼御下文、五郎時頼、被持向三浦矢部別庄〈云々〉是駿河前司義村娘也始爲左京兆室生故修理亮後爲盛連室爲光盛、々時、々連等母〈云々〉
引用:『吾妻鏡』
北条泰時が最初に結婚したのが、三浦義村の娘・矢部禅尼です。
矢部禅尼の父親は三浦義村ですが、母親は分かっておらず、三浦義村室の土肥実平娘、もしくは甲斐源氏の一条忠頼娘、それか義村の側室の誰かかと思われます。
北条泰時と矢部禅尼の結婚は頼朝の肝いりでした。
北条泰時の元服時、頼朝が三浦義澄に「良い若者だ、お前の婿にしろ!」と誘い掛け、それに対し三浦義澄が「孫娘の誰かを……」と返したことで始まったのです。
ちなみに矢部禅尼は文治三年(1187)生まれ、泰時の元服時(建久五年【1194】)にはまだ10歳にもなっていない幼女でした。そのため、結婚自体は頼朝死後の建仁2年(1202年)のことでした。
翌年、矢部禅尼は泰時の長男となる時氏を産みます。また泰時の長女で、矢部禅尼の甥にあたる三浦泰村に嫁いだ女性ももしかしたら矢部禅尼の所生かもしれません。
しかし、いつの間にか、泰時と離縁しています。なぜ……?
ちなみに離縁した時も特に北条氏と三浦氏の関係は悪くなっていません。三浦義村も北条義時も泰時もまったく関係性に変わりはありません。なぜ……?
頼朝の遺言のようなものだったから結婚したけれども、北条氏も三浦氏もお互いいろいろと思うことがあったのかもしれませんね。
いつの間にかしれっと離縁していた矢部禅尼ですが、離縁した時は10代後半~20代という年齢でした。
離縁した時同様に、彼女はいつの間にか再婚を果たしています。再婚相手は三浦一族の親戚でもある佐原盛連でした。
彼女はこの時は仲良くやっていたのか、佐原盛連との間に三人の男子を産み、添い遂げました。(ちなみに夫の佐原盛連は酒乱で暴行事件を起こすなど荒々しい人物でした。穏やかな人よりも乱暴な人のほうが相性が良かったんですかね。)
夫佐原盛連の死後は出家し、三浦の矢部郷に住みます。(「矢部禅尼」の名前はここからきていますね。)
後年、宝治合戦によって三浦一族は族滅しますが、矢部禅尼と矢部禅尼の三人の子供たちは異父兄の一族である北条氏に与したため、お咎めなしでした。
矢部禅尼と佐原盛連の次男・盛時は三浦姓を名乗り、三浦氏を再興します。
また、矢部禅尼と佐原盛連の長男の光盛は、奥州に名をはせる戦国大名・蘆名氏の祖となりました。
北条氏に残した泰時との長男・時氏は早世しますが、時氏の子である経時、時頼は祖父泰時の跡を継いで執権となり、時頼の子孫が北条得宗家として鎌倉幕府滅亡まで続きました。
北条泰時の正室(継室):安保実員の娘(谷津殿)
北条泰時は矢部禅尼と離縁した後、おそらくそれほどたたないうち、おそらく1211年ごろに武蔵国の御家人・安保実員の娘である谷津殿と再婚しています。
泰時継室・谷津殿は武蔵国の御家人安保実員の娘でした。
祖父の安保実光は平家征伐・奥州合戦などで名を挙げた武士です。
北条政子からは武蔵国の御家人の中でも特に信頼がおける人物として名を挙げられたこともあるほどの忠節、1221年の承久の乱時に宇治川の戦いで敵方の武将と組み合ったまま、溺死したほどの勇猛さで知られています。
ちなみに承久の乱時には、安保実員娘・谷津殿の夫の北条泰時が総大将でした。もしかしたら義理の祖父と孫娘の婿とで何らかの会話もあったかもしれませんね。
安保実員娘・谷津殿は武蔵七党丹党の出で、武蔵国の名門武家ではありますが、前妻の矢部禅尼の実家の三浦氏と比べると幕府内での位置はさほど……といった感じではありますね。
左京兆、爲室家母尼追福、於彼山内墳墓之傍、被建一梵宇今日有供養儀導師、莊嚴房律師行勇、匠作、遠江守、令聽聞給
引用:『吾妻鏡』
しかし安保実員娘・谷津殿と泰時との関係性は、かなり良かったようです。
結婚してからだいぶたった嘉禎三年(1237)には、安保実員娘・谷津殿の母を供養するため(前妻矢部禅尼の母かも?という説はありますが)、泰時は粟舟御堂といった寺を建立しています。
さて、安保実員娘・谷津殿は、北条泰時との間に、泰時次男となる時実を産んでいます。建暦二年(1212)のことです。
北条時実は従姉妹にあたる名越朝時の娘と結婚するなど、将来を嘱望されていたようですが、16歳の時に家人の高橋次郎とトラブルになり、殺されてしまいました。時実に子供はいませんでした。
なお安保実員娘・谷津殿の子供として確定しているのは、泰時次男の北条時実のみですが、泰時にはほかに3人の娘(三浦泰村正室、足利義氏正室、北条朝直継室)がいます。
もしかしたら、彼女たちの何人かは安保実員娘・谷津殿の所生かもしれません。
三浦泰村正室となった北条泰時の長女は、泰村との間に二人の子を産みましたが、一人は死産、一人は生まれてすぐ死に、彼女自身も二人目の出産にからだが耐えられず産褥死しています。
源氏の名門である足利義氏に嫁いだ北条泰時の次女の子孫は、後の室町幕府足利将軍家へと繋がっていきます。
初代連署北条時房の息子・北条朝直に嫁いだ三女は、寛喜3年(1231年)に男子を産んだことが分かっていますが、この男子が朝直の長男であった北条朝房であるのかどうかは分かりません。(北条朝直の長男・朝房は生年不詳です……)
ちなみに北条朝直の跡を継いだ北条宣時は 暦仁元年(1238年)生まれで、生母が分かっていません。北条朝直継室、ひいては北条泰時の血が大仏流に流れているかはそのため不確定と言えます。
ちなみに泰時には富士姫(富士姫公、駿河に下向後、源国親の猶子となるため上洛、詳細不明)、粟舟御堂に葬られた姫宮、閑院流(徳大寺家?)左近江中将藤原実春に嫁いだ娘(北条義時の娘説あり)といった子もいたといいますが、彼女たちが子孫を残したかは不明瞭です。
話はそれましたが、安保実員娘・谷津殿はいつごろ亡くなったのかは分かりません。お墓の場所等もまったく伝わっていません。
ただ夫の北条泰時は、谷津殿の母のために建てた粟舟御堂に墓を作っているため、彼女も泰時とともに粟舟御堂に葬られたのではないでしょうか。
北条泰時の側室:北条公義の母
北条泰時には、死の前年に生まれた公義という男子がいました。甥(長兄時氏の子)の北条経時、北条時頼らよりも年若い男児ですね。
北条泰時継室・安保実員娘谷津殿が次男時実を産んだのは建暦二年(1212年)でありますが、公義が生まれたのはそれからおよそ30年後の仁治ニ年(1241)のことです。
さすがに北条公義が谷津殿の所生とは考え難いでしょう。
おそらく北条公義の母は、晩年の泰時の年若い側室だったと思われます。
彼女が生んだ北条公義は、年少だったことや、すでに甥たちが成長していたこともあり、北条得宗家の跡取りとなることはありませんでした。
公義には、泰茂、泰瑜といった子供はいたようですが、公義自身は若いうちに出家してしまったといいます。
公義生母の北条泰時側室のその後については杳として知れません。