井伊直政の妻(正室、側室)たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

譜代大名として筆頭格である彦根藩井伊家の祖が、井伊直政です。徳川四天王の一人としても、有名ですよね。

そんな井伊直政の妻(正室、側室)について調べてみました。

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井伊直政の正室:花(松平康親娘・徳川家康養女、唐梅院・清泉院とも)

井伊直政の正室は、松平康親の娘で、徳川家康の養女であった花姫です。

花の父、松平康親はもともと「松井忠次」と名乗っていましたが、徳川家康により特別に松平姓を許されたことから改名して「松平康親」と名乗るようになりました。

花の母は松平康親の前妻にあたる江原政秀(江原丹波守)の娘です。

花の母である江原政秀娘は、花がまだ幼いうちに離縁されていました。(離縁しておらず側室になった可能性もあります)

江原氏は小笠原氏と関係が深く、江原氏が三河一向一揆で徳川家(松平家)と敵対して一揆方に参戦していたことなどが影響したのかもしれません。

ちなみに父松平康親の後妻で花の継母にあたる女性・松平重吉(松平次郎右衛門)の娘は家康の愛人説があり、彼女の産んだ花の弟・松平康重には家康落胤説があったりします。

実母は実家が家康と敵対して離縁、継母は家康の愛人疑惑の女性、そしてのちのちの息子関連のことと言い、ある意味花は家康と因縁がある……のかも……。

花は天正11年(1583)11月1日、前年に元服したばかりの井伊直政と結婚します。花はこの時、家康の養女となって嫁いでいます。

家康寵愛の若武者と、家康の功臣の娘にして養女である姫君の結婚は、さぞや豪勢なものであったのではないでしょうか。

二人の間には、長男にあたる井伊直勝、家康の四男で二代将軍秀忠の同母弟にあたる松平忠吉に嫁いだ長女・政子、そして宇和島藩主伊達秀宗(仙台藩主伊達政宗の庶長子)に嫁いだ次女・亀(德興院、桂林院とも)の一男二女が生まれたといいます。

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花は直政に対してかなり強い妻で、直政が側室を持つことを厭ったといいます。(実母江原氏が父に離縁されていたのもあり、他の女性の存在が脅威だったのかもしれませんね。)

しかし、直政が関ケ原の戦いでの傷が癒えずに早世後、花の産んだ長男・直勝(直継)は病弱なことを理由に、家康直々の命により、家督を側室との子である直孝に譲らされてしまいます。

花の悲憤はいかほどだったでしょう。

とはいっても、癖の強い家臣の多い(徳川家の直臣や武田家の遺臣などもいた)彦根藩主の地位は直勝には重かったのかもしれません。

直勝自身は愚鈍と言うほどでもありませんでしたが(彦根城の人柱を拒否するなど論理的な性格でもあったようです)、病弱で軍議にも出れなかったといいます。

一方、異母弟の直孝は「夜叉掃部」と呼ばれるように、「井伊の赤鬼」と呼ばれた父にそっくりだったようです。家中からの評価の差も推して知るべし、だったのでしょう。

彦根藩から出た後の直勝は気も軽くなったのでしょうか。病弱と言われた直勝は上野安中藩3万石の藩主となり、異母弟の直孝よりも長生きしています。

その後も子孫は越後与板藩主として続いていきました。

ちなみに花の産んだ二人の娘たちはいずれも大名に嫁ぎましたが、彼女たちの産んだ子の多くは早世し、夫の後継者となる子を為すことはできなかったようです。

井伊直政の側室:阿古(印具道重【印具徳右衛門】の娘、もしくは妹。養賢院とも。)

井伊直政の側室は、相模国の武士・印具道重の娘、もしくは妹と伝わる阿古です。

阿古の父・印具道重は、正室である花の父の松平康親の家臣で、馬屋預を務めていました。松平康親没後は、花の弟である松平康重の家臣となったようです。

阿古は父の縁もあってか、井伊直政正室・花の侍女となりました。

しかし、いつのころからか主人の夫である直政と通じて、身籠ってしまいます。時期的に、花が井伊直勝を身籠っていたころかもしれません。

花は激怒したことでしょう。阿古は花によって、父・印具道重のもとに返されてしまいました。

そのころ、松平康重は、沼津城から武蔵国騎西(私市)に移封されるところでした。

阿古は父ともども沼津から騎西へ移り住む途中、東海道の藤枝宿(もしくは駿河国中里の印具氏の屋敷とも)で井伊直政の次男となる直孝を産みます。

阿古が直孝をどこで育てたのかは分かりません。そのまま藤枝(中里)で育てたのか、それとも騎西で父親と育児したのか。

ただ直孝が6歳になるころに、阿古は直孝を連れて、上野国安中の井伊直政に会いに行きます。城の中に入ることはできなかったため、外出時の直政に会おうと試みました。

しかし直政は直孝を手元に引き取ることを拒み、安中の庄屋に預けたとも、安中の北野寺に預けたとも言います。

いずれにせよ、直孝は阿古の手から引き離されてしまいました。阿古はどのように思っていたのでしょうね。

直政が直孝と対面したのはただ1度きりのことで、直政の死の前年、慶長六年(1601)のことでした。

直孝は直政死後、徳川秀忠に仕えます。その時に家康の知遇を得たのでしょうか、後に父の跡を継いで、直孝は彦根藩主となりました。

母である阿古は父ともども、彦根に住んだことだと思われます。彦根藩主の実母として、穏やかに暮らしたのではないでしょうか。

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