頼朝は「蛭ヶ小島」に島流しされていたのか~頼朝の流罪先について~

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

源頼朝は10代前半から30代前半まで、約20年を伊豆国の「蛭ヶ小島」に過ごしたといいます。

蛭ヶ小島、という名前を聞いて「頼朝は実は島流しだったの?」と思う方もいるようですが、実は頼朝はあくまでも「伊豆国へ流罪」となっただけで、島流しになったわけではないようです。

ここでは頼朝の流罪先について調べてみました。

頼朝は伊豆へ流罪となったが島流しではない

頼朝は平治の乱で父・義朝ともども平家と敵対します。

長兄義平は斬首、次兄朝長は戦傷がもとで衰弱し父義朝に殺されるといった悲惨な最期をとげますが、頼朝は助命されました。

頼朝が助かった理由は、後世の歴史物語『平治物語』によると、清盛の継母・池禅尼の助命嘆願(池禅尼の亡くなった息子に似ていたから)によるものだと言われています。

ただ頼朝が助かった理由はそれだけではないでしょう。頼朝は異母兄2人と違い、後白河院の姉・上西門院の女房を母親に持っており、頼朝自身も上西門院の官人であった形跡があります。上西門院たちによる助命嘆願もあったのではないでしょうか?

さて、助命された頼朝ですが、それでもそのまま都に置いておくわけにはいきませんでした。頼朝は当時辺境の地であった伊豆国へ流罪となります。

ちなみに頼朝の流罪に先だって、保元の乱にて頼朝の叔父・為朝が伊豆大島に流罪になっています。頼朝は為朝ほどには悪質ではないとみなされたのか、島流しではなくあくまでも伊豆国に配流という形になったようです。

なぜ「島流し」と思われるのか、その理由は頼朝の最初の流罪先「蛭ヶ小島」

武衛、殊感嘆欽仰給、事訖賜施物判官邦通取之及晩、導師退出至門外之程、更召返之、世上無爲之時、於蛭嶋者、爲今月布施之由、仰覺淵頻有喜悦之氣、退去〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

頼朝は伊豆に流罪になってすぐは「蛭ヶ小島」という場所に住んでいたといいます。

蛭ヶ小島というと、「島」とついていますからやはり「島流し」では?と思うかもしれません。

しかし、蛭ヶ小島自体は海に浮かぶ島ではなく、川の中州(狩野川の中洲ではと言われています)、もしくは田んぼが広がるなかにぽつんとあった空間であったことから「島」と呼ばれるようになったのでは、と言われています。

いずれにせよ「蛭」という地名がついていたことを考えると、湿地帯で蛭が多く生息していた場所ではあるのでしょう。

文化最先端の都で華やかに暮らしていただろう頼朝からしたら相当大変な生活だったでしょうね。

吾妻鏡では、頼朝の流刑地は「蛭ヶ小島」ではなく、「蛭島(蛭嶋)」として名前があがっています。

この蛭嶋は「蛭嶋郷」であり、熱海の伊豆山権現(伊豆山神社、走湯権現とも)に属した寺院・密厳院の領地だったとも伝わります。

もしも単に「蛭嶋郷」であるならば、頼朝の流刑地はそもそも島のような地形の場所でもなかったのかもしれません。

頼朝は八重姫のことで伊東祐親から逃亡した際には伊豆山権現へ逃げ込んでいますから、蛭嶋郷だとすると頼朝と伊豆山権現の関係性の深さも分かるような気がします。

下総權守重行者、依属平家之咎、去年配流伊豆國蛭嶋

引用:『吾妻鏡』

頼朝以後も蛭嶋はたびたび流罪地にされることがあったようで、下総権守重行(御家人の大河戸広行の父)が、頼朝自身の命によって蛭嶋へ流罪になっています。

頼朝の次の流罪先は「北の小御所」

頼朝は蛭ヶ小島(≒蛭嶋?)で挙兵時まで20年ほど過ごした、とも言われていますが、伊東祐親の監視下で蛭ヶ小島から「小御所」と呼ばれる館に移ったという説もあるようです。

なんだかんだいって頼朝は河内源氏の御曹司ですから、伊東祐親としてもそこまでむげには扱えなかったでしょう。

「小御所」というとかなり大層な気もしますが、蛭ヶ小島からより住みやすい、そしてある意味より監視しやすいように伊東館の近くに身柄を移したというのはあり得るでしょう。

『曽我物語』によると、頼朝は「北の小御所」へ移り住んだといいます。彼はここで八重姫と出会い、関係をもったとも。

「北の小御所」の場所等は全く分かりませんが、伊東館の北、現在松月院という寺院のあるあたりに「北の小御所」はあったのではとも言われています。

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