嵐の松本潤さんが大河ドラマ『どうする家康』で演じることで話題になっている戦国時代の最終的な勝利者・徳川家康。
70年以上にわたるその生涯で、多くの女性を妻としたことでも知られています。そんな徳川家康の妻たちについて調べてみました。
ちなみに家康の側室選びはなかなか面白くて、
①後家
②武田氏ゆかりの女性
③若い女性
が多いんですよね。
青年期~中年期は①後家が好きだったみたいで、武田氏滅亡後は②武田氏ゆかり(武田家旧臣など)の女性、そして最晩年には③若い女性へと好みが移っていきます。
①後家を側室に選んでいたのは、後継者となる子供をたくさん儲けるため(築山殿との間には一男一女、さらに一男は死んでしまいますしね)ということも大きかったのでは?と言われていますが、②武田氏ゆかりの女性、③若い女性に関しては……好みが大きかったのかな?なんて思います。
武田氏ゆかりの女性への並々ならぬ関心はなんで生まれたんでしょうね。三方ヶ原でのトラウマが面白い方向に行ったんでしょうか……?
ちなみに武田氏の有力家臣・馬場信春の娘も側室にしようとしていたみたいですね。
家臣の鳥居元忠に探し出してくるように命令したようですが、なんと肝心の鳥居元忠自身が何食わぬ顔で妻にしてしまったそうです。
正室:築山殿
名前は瀬名とも。今川家家臣関口親永の娘で、母は今川家の娘(義元の妹とも叔母とも、また一説には井伊家出身で義元の側室だった女性とも)です。今川義元とは親戚になります。
生年不詳のため、家康との年齢差は分かりません。かつては家康よりかなり年上の妻だったと言われていましたが、どうなんでしょうね。
彼女と家康の結婚は、家康の今川家における地位を押し上げる役割を果たしたようです。家康との間に長男の信康と、長女の亀姫(奥平氏に嫁ぐ)を産みました。
家康からしても主家に近い姫君とあって、側室を(表向きは)迎えないなど、かなり尊重されていたようです。
しかし、今川義元死後、少しずつ築山殿の運命は狂っていきます。
義元死後、家康は今川家から独立して行動するようになりました。しかし、築山殿は子供たちと一緒に今川家に留まることになってしまいます。そしてその間に、父の親永は今川氏真(義元の息子)によって妻ともども自害に追い込まれます。
その後、数々の交渉を経て築山殿は家康のいる岡崎城に赴く……のですが、なぜか、家康によって岡崎城ではなく、岡崎城外の寺に移されてしまいます。
息子・信康の成長に伴って、何とか岡崎城に住めるようになりましたが、その時には家康は岡崎城を離れて浜松城に移動してしまいます。事実上離縁状態だったみたいですね。
築山殿は息子と一緒に生活していましたが、息子の嫁の五徳(織田信長長女・松平信康正室)との折り合いが悪かったようです。信康と五徳の間には娘しかいなかったことから、自分の侍女を信康の側室に与えたりしていたようですね……。
とうとう五徳は信長に対して、「築山殿は武田家と通じている、奥医師と浮気している」と讒言をしました。そして五徳が信長に泣きついた結果、信長は激怒、そして築山殿は家康の命令によって殺されてしまいます。築山殿の息子・信康までも自害に追い込まれました。
戦国時代、跡を継ぐべき息子が自害に追い込まれることはままあることでした。(逆に後継ぎである息子に当主が殺されることもありました)
例えば、武田信玄は自身の嫡男・武田義信を死に追いやっています。しかし信玄は、義信の母で正室である三条夫人を処断することはありませんでした。一方、築山殿は長男ともども処断されることになります。
築山殿と三条夫人の違いは何なのでしょうね?よく分かりません。ただ、家康からすると、事実上離縁状態にあった妻を片づける良い機会だったのかもしれませんね。
その後しばらく、家康は正室を迎えませんでした。他にも息子がいましたし、今更……という気分だったのかもしれませんね。
継室:朝日(旭)姫
豊臣秀吉の異父妹で、秀吉と家康の関係を強くするために、家康に嫁ぎました。朝日姫はすでに別の人に嫁いでいたにもかかわらず、秀吉は無理やり離縁させたといいます。
朝日姫は家康の1つ下で、結婚当時は44歳でした。当時、秀吉は小牧・長久手の戦いで家康相手に敗北しており、なんとしても家康を懐柔する必要があったのです。
秀吉の母・大政所も人質として、家康のもとにいる朝日姫と同居していたこともあったようです。
夫婦関係がどうだったのかはよく分かりませんが、秀吉の妹ということもあり重んじられたようです。
しかし、朝日姫は結婚から4年ほどで病気で亡くなりました。家康は朝日姫の菩提を弔うため、東福寺に塔頭を建てたそうです。
側室:お愛の方(西郷局)
遠江国出身。三河国の豪族である西郷義勝の妻となり、子供も産みましたが、義勝は早くに亡くなってしまいます。義勝死後、家康の側室となります。
美女であり、また性格も穏やかであったことから、家康に重んじられたようです。
三男にして二代将軍秀忠と、四男の松平忠吉を産みましたが、天正年間に38歳で亡くなりました。築山殿の侍女だった女性に毒殺されたといううわさもあります。
側室:阿茶局
武田氏旧臣・飯田氏の娘。家康の右腕的側室として有名ですね。2人の子を持つ寡婦でしたが、家康の側室となりました。
家康との間には流産した子が1人いましたが、その後亡くなった西郷局(お愛の方)に変わって、家康の三男秀忠、四男忠吉を養育します。そのつながりで、前夫との子神尾守世は秀忠の家臣となりました。
後継者秀忠の養育を任されていたという時点で、家康の彼女に対する信頼の篤さが分かりますね。
さらに、彼女は政治的にも活躍しており、大坂冬の陣での大坂方との和睦の際には、徳川家の女性代表として和議の場に現れました。家康の死後は秀忠に呼ばれたのでしょうか、江戸に住んでいましたが、まだまだ彼女は活動します。
秀忠の娘で後水尾天皇にとついだ和子(東福門院)の守役をつとめ、後水尾天皇から従一位を与えられています。
従一位を与えられた女性と言えば、彼女以外では秀忠の正室・お江や豊臣秀吉正室・北政所くらいですからね。事実上家康の後半生における正室に準じた存在だった……のかもしれませんね?
寛永年間に亡くなりました。
側室:お万の方(おこちゃ)
三河国池鯉鮒の神官の娘で、もともとは築山殿の侍女だったと言われています。ただ実は家康の親戚だったという説もあるそうです。
次男の結城秀康の母。また、結城秀康と双子で永見貞愛(双子は当時忌むべきものとされていたため、子供と認められなかったようです)を産んだとも言われています。
息子の結城秀康は家康次男でありましたが、豊臣秀吉の養子となるなど豊臣氏と関係があったために、長男信康死後、後継者となることはできませんでした。
家康とは疎遠だったようで、彼女は秀康死後に家康の許可なしに出家する(けれどお咎めなし)などしていました。
息子秀康は後継者にこそなれませんでしたが、孫たちは越前松平家として全国の親藩・松平家のリーダー的立ち位置となります。
側室:茶阿局
彼女が側室になったいきさつには、こんな伝説があります。
茶阿局は百姓の娘として生まれ、鋳物師の妻となりました。しかし、その美貌ゆえに代官に横恋慕され、夫を殺されてしまいます。
茶阿局は娘を連れて家康の元に直訴し、代官を処罰してらうように頼みこみました。代官が処罰された後、茶阿局はその美貌や聡明さ家康に気に入られ、側室になりました。
ただ、茶阿局が実際鋳物師の妻であったかはよく分からないようです。一度結婚していたのは事実のようですが……。
家康に愛された茶阿局ですが、なぜか茶阿局の産んだ家康の六男・松平忠輝は家康に嫌われてしまい、なかなか領地が与えられないなど冷遇されます。
嫌われた理由はよく分かっていませんが、一説には家康が自害させた長男・信康に瓜二つだったからとも言われています。とばっちり感がすごいですね。
松平忠輝は冷遇されたものの、伊達政宗の娘と結婚し、越後高田の藩主となりました。
しかし、大坂冬の陣・夏の陣の際に、再度家康の不興を買ってしまいます。許しの出ないまま家康は亡くなってしまい、最終的に異母兄の秀忠によって改易されることになりました。
茶阿局は忠輝を助けようと奮闘したようですが、その行動は実を結びませんでした。
息子と引き離され、失意の中、元和年間に死去しました。ただ忠輝は改易後、流罪となったものの、現地の文人と交流するなど悠々自適の生活を送ったようです。それだけが救いでしょうか。
側室:下山殿
武田一門の秋山氏の娘と言われていますが、一説には武田信玄の娘とも。
武田氏旧臣で信玄の娘婿である穴山信君の養女で、信君の仲介で側室になったと言われています。側室になる前は、穴山信君の弟の妻だったという説もあるそうです。なかなか複雑ですね……。
武田信玄ゆかりの女性を求める家康からは、かなり大事にされていたのでしょう、「築山殿」のように「下山殿」という敬称で呼ばれています。
家康の五男・信吉を産みました。信吉は、後に「武田」を名乗りますが、子孫を残さず早世することになります。信吉の家臣や領地は異母弟の頼宣、そして頼房に引き継がれ、水戸徳川家の礎を築くことになります。
下山殿は信吉の早世を見ることなく、天正年間に亡くなっています。
側室:西郡局
今川家旧臣鵜殿氏の娘。家康の次女・督姫(最初後北条氏に、後に池田家に嫁ぐ)を産みました。家康の又いとこでは?とも言われています。
慶長年間に伏見城で亡くなりました。葬儀は娘婿の池田輝政が行ったそうです。
彼女について詳しくはこちらから↓
側室・お竹の方
武田氏旧臣・市川氏の娘と言われていますが……穴山信君(武田信玄の娘婿)、武田信玄自身の娘とする説もあるそうです。出自が同じ武田氏旧臣である下山殿と混同されているみたいですね。
1580(天正八)年頃に、振姫(蒲生家、浅野家に嫁ぐ)を産んだと言われています。(振姫の母は下山殿とする説もあるそうです、どちらにせよ振姫は武田氏とゆかりがあるということにはなりますが……)
なかなか長生きだったようで、戦国時代も遠いこととなった江戸時代・寛永年間に亡くなりました。
娘だとされている振姫は彼女に先立つこと20年ほど前に亡くなっていますが、その子孫は広島藩主浅野家として続きました。
側室:お牟須の方
武田氏旧臣・三井氏の娘。朝鮮出兵のため、肥前名護屋に赴いた家康に付き添いましたが、その時妊娠中でした。そのまま名護屋で出産しますが、難産のため母子ともに死去します。
側室:お仙の方
武田氏旧臣・宮崎氏の娘。家康死去後、さほど間を置かずに亡くなりました。阿茶局とかかわりが深かったのか、阿茶局ゆかりの京都の寺院・上徳寺に阿茶局と並んで墓碑が残されています。
側室:お松の方
出自不明で、実在していたとは思われるが謎の多い側室その①です。伝説的な家康の落胤・松平民部の母とされています。
側室:三条氏
公家の三条家の娘?とされる以外、名前はもちろん生没年、墓所も不明な謎の多い側室②です。彼女に至っては実在もあやふやですね。家康の継室・朝日姫の侍女で「大さい」と名乗っていたという説もあるようです。家康との間に小笠原権之丞なる落胤を産んだとされています。
側室:富子
山田氏の娘です。寛永年間に亡くなりました。墓碑銘に「東照權現逑遇(家康の配偶者)」と書かれていることから、徳川家康の側室の1人では?と言われています。
側室:お万の方
家康の晩年の側室の1人。安房里見氏の家臣・正木氏の出身で、母方からは北条市の血をひいているとも。韮山代官の養女として家康のそばに使え、側室になりました。
関ヶ原の戦い後の1602(慶長七)年紀州徳川家の祖となる頼宣を、1603(慶長八)年に水戸徳川家の祖となる頼房を産みます。
彼女自身は日蓮宗の熱心な信徒で、家康相手に日蓮宗の僧を赦免するように迫ったという逸話がありますが、真偽は不明です。あまり政治にはかかわっていなかったみたいですね。
いまいち影の薄い彼女ですが、息子たちを通して、八代将軍吉宗以降のすべての将軍の先祖であったりもします。面白いこともあるものですね。
側室:お亀の方
石清水八幡宮の神官の家系に生まれました。彼女と同じく石清水八幡宮の神官の家系に生まれた女性の中には、足利将軍の側室となり、足利義満の母となった女性もいました。結構美女の多い家系だったんでしょうか?
最初、竹腰氏に嫁いで、男児(竹腰正信、尾張藩の家老になる)を産みますが、夫と死別してしまいます。
その後、豊臣家の馬廻で、龍野城主であった石川光元の側室にあがることとなります。そして後継ぎとなる男児(石川光忠、尾張藩の家臣となる)を産みますが、光忠の正室(近江浅井氏出身、淀殿の親戚)に嫉妬され、側室を辞することとなりました。この時点で彼女はまだ22歳……。とんでもなく波乱万丈な香りがしますね。
ただ、その後家康と出会い、側室となってからはわりと穏やかに暮らしたようです。彼女は家康の九男で尾張徳川家の祖となる義直を産みました。前夫たちとの子供も義直の家臣となり、栄えました。
側室:お久の方
後北条氏旧臣・間宮氏の娘。伏見城で家康の四女・松姫を出産しましたが、松姫は早世しました。(松姫の生母は後述のお勝の方という説もあります。)家康の死の翌年に駿府で死去。駿府で亡くなったということは、家康のそばに最期までつかえていたのでしょうね。
側室:お勝(お梶・八)の方
家康の晩年に権勢を誇った側室。太田道灌の子孫とも、遠山氏の生まれとも言われています。どちらにせよ関東出身、江戸にゆかりのある女性だったみたいですね。
若い時分に一度側室を下がり、松平正綱(大河内松平氏)に嫁いだそうですが、何があったのか家康のもとに戻されました。その後は一身に寵愛を受けたようです。
「うまいものも塩、まずいものも塩」と答えて家康や家臣を感歎させた話や、倹約を貫いた話など、「賢女」だったことをうかがわせる逸話がありますが……真偽性はいまいちだそうですね。
彼女の産んだ家康の五女(家康の最後の子供とされます)・市姫は伊達政宗の嫡子・忠宗と婚約しますが、市姫は残念なことに早世します。
子供のいないお勝の方を思いやってか、家康は別の側室・お万の産んだ徳川頼房(水戸徳川藩祖)や、家康の孫にあたる松平忠昌(のち福井藩主)、振姫(池田市の娘で家康の外孫、のちに市姫に代わって忠宗と結婚)の養母としました。
家康死後は出家し、江戸で暮らします。のちにご先祖(かもしれない)太田道灌の鎌倉における旧領を手に入れ、その地に英勝寺という寺を建てました。英勝寺は代々の住持に水戸徳川家の姫君を迎えるなど、水戸徳川家の庇護を受けて栄えました。
側室:お夏(奈津)の方
伊勢北畠家の旧臣・長谷川氏の出身。もともとは二条城の奥勤めだったそうですが、その後家康の側室となったようです。寵愛を受けており、大坂冬の陣では本陣に、夏の陣では伏見城に連れてこられていました。
家康没後は寡婦として、年金などをもらいながら生活をしていました。甥の孫を養子にとり、扶持などを継がせたようです。万治年間に死去しましたが、この時すでに家康の孫・家光も亡くなり4代将軍家綱の時代となっていました。最後まで生きていた家康の側室です。
側室:お梅の方
家康の親戚(家康の祖母青木氏の一族出身)だそうです。ただ彼女の家族は豊臣家家臣だったそうです。不思議ですね。
家康の親戚であることが縁となって、家康の侍女となり、そして家康の側室となりました。しかし、のちに宇都宮城主・本田正純に下げ渡され、妻となります。しかし、本田正純は宇都宮釣天井事件で失脚、流罪になってしまいました。お梅は正純には同行しませんでした。
出家したのち、伊勢国に梅香寺を建て、そこを拠点に生活をしたようです。同地で正保年間に死去しました。
側室:お六の方
もともとはお勝の方の侍女だったとも。家康が最後に寵愛した側室で、大坂冬の陣にも同行したと言われています。
家康死後、一度は出家したものの、喜連川氏(足利氏の分家)の喜連川義親に嫁いだそうです。喜連川義親は榊原康政の義妹ともともと結婚しており、お互い再婚同士の結婚だったようです。
しかし、お六の方は再婚からそれほど立たないうちに、突如亡くなりました。家康の法事で日光東照宮に参詣していた時に亡くなったため、家康に呼ばれたのでは…なんてうわさもあったそうです。
側室?:松平重吉の娘
一族の松平重吉の娘、ですが……詳細は不明です。おそらく家康の若かりし頃~中年期くらいの側室ではないかと思われます。
松平重吉の娘で、石川氏、再婚で松平康親に嫁いだ女性がいるのですが、この女性が再婚して産んだ長男・松平康重に徳川家康の落胤説があるので、もしかしたらこの人のことかもしれません。
この女性は最初の結婚で、石川数正を産んでいます。石川数正は家康のもとから謎の出奔を果たした後豊臣家に仕えたという面白い経歴の人物だったりします。
側室?:土井利勝の母
家康に破格の寵愛を受けたことで知られる江戸幕府の重臣・土井利勝には、徳川家康の落胤説があります。その場合、土井利勝の母は「家康が正室・築山殿の目を盗んで手を付けた女性」になるみたいです。
この女性についてはそれ以上は分かっていませんが、家康や築山殿につかえていた女性だったのでしょうか?
コメント