徳信院・直子女王 徳川慶喜に信頼された若き「祖母」

近世史(日本史)

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大河ドラマ『青天を衝け』にも出てくる徳川慶喜の義祖母・徳信院。
「祖母」というにはかなり年齢が若いようにも見えますが、史実でも徳川慶喜と徳信院の年齢差は7歳違い、祖母と孫どころか姉弟のような年齢差なのですね。
なぜこのようなことになったのでしょうか。徳信院の生涯を探っていきます。

伏見宮の娘・東明宮直子女王として生まれて

徳信院は天皇家の分家にあたる伏見宮貞敬親王の16番目の娘として生まれました。生まれたときの幼名は東明宮、のちに直子という名前がつきます。母親は家女房の梅操(藻?)院・合田愛子です。

父の貞敬親王は多くの側室たちとの間に子供を設けており、徳信院もその1人でした。
異母兄で父の跡を継いだ伏見宮邦家親王も子だくさんであり、徳信院が生まれた時点ですでに甥(倒幕にいそしんだ中川宮こと後の久邇宮朝彦親王)まで生まれていました。

すくすくと成長した直子女王は、徳川将軍家の分家の一つ、一橋徳川家の徳川慶壽との結婚が決まりました。

この結婚は、同じく徳川将軍家の分家の清水徳川家に嫁いでいた姉・英子女王の手配とも、12代将軍家慶の正室であった有栖川宮家出身の親戚・喬子女王(この人物は慶喜の母の姉でもあったりします)の手配とも伝わります。どちらにせよ、家柄の釣り合った良い縁談だったのでしょう。

数えで12歳となった直子女王は江戸に下り、慶壽と結婚します。慶壽は数えで19歳、直子女王より少し年上でした。夫婦仲が伝わるようなエピソードは伝わってないようですが、慶壽には側室とかは見当たらないようですから、それなりに仲良くやっていたのではないでしょうか。宮家の姫君と将軍家の一族の若殿、まるでお雛様のように美しい夫婦だったのかもしれません。

しかし、直子女王の結婚生活はわずか5年ほどで幕を下ろしました。慶壽との間に子供に恵まれないまま、慶壽は疱瘡で若くしてこの世を去るのです。

一橋徳川家未亡人・徳信院として

直子女王は夫の死後落飾し、「徳信院」と名前を改めました。徳信院は一橋徳川家存続のため尽力します。まずは、一橋徳川家の後継ぎとして、同じ徳川家の分家・尾張徳川家から昌丸という赤子を養子に迎え入れました。しかしわずか3か月後、昌丸は夭折してしまいます。

次に迎え入れたのが、同じく徳川家の分家・水戸徳川家から迎え入れた七郎麻呂です。数え11歳であった七郎麻呂は「慶喜」の名前で一橋徳川家の跡取りとなりました。

年齢のさほど変わらない徳信院が慶喜の祖母と言われるのは先々代の慶壽の正室であり、慶壽の死後、昌丸、そして慶喜と代が変わったことが原因なのですね。

慶喜は母親が宮家出身(有栖川宮の吉子女王)で公家文化にも詳しかったこともあったのでしょうが、徳信院とは非常に仲が良かったようです。食事を一緒に食べることもあったようですね。

とはいえどあまりに親密すぎたため、「実は男女の仲なのでは……?」と、誤解をまねいてしまいました。それを真に受けたのが、慶喜の正室であった一条美賀子です。

彼女は慶喜の謡の稽古を邪魔する、声を上げて慶喜に当たり散らすなど嫉妬し、とうとう自殺未遂までしかけたそうです。しかもそれが他の大名家にまで知れ渡るという……慶喜としてもたまったものではなかったでしょうね。徳信院自身は美賀子のことを気にかけていたようで、美賀子と慶喜の間を取り持ったりしていたようです。

一橋家の事実上の当主として

徳信院は慶喜が将軍継嗣として名前が挙がるようになると、大奥と文をやり取りするなど慶喜のサポートに徹したようです。将軍家継嗣には結局紀州徳川家の慶福(のちの家茂)がついたため、このサポートは無駄になってしまうのですが、結局家茂は早世、慶喜が将軍となります。

さて。慶喜は将軍となったわけですが……再び持ち上がるのが一橋家の当主が誰になるか?という問題です。当時慶喜に子供はおらず(正室の美賀子との間に娘が生まれていましたが夭折しています)、一橋家は当主不在となりました。尾張徳川家から養子を迎えるのが決定するまで4カ月ほど、徳信院が当主として一橋家を切り盛りしました。その後も一橋徳川家に一定の影響力を及ぼしていたようです。

明治以後の徳信院

明治に入った徳信院は、東京で穏やかに日々を過ごしたようです。伏見宮家の姫君ですから、明治の世であっても重んじられたのでしょう。

一橋家の当主には慶喜の娘や孫娘を嫁に迎えるなど、慶喜とのつながりはなおも強かったようですね。慶喜が静岡で暮らしていた時分には、静岡を訪問したこともあったようです。

明治25年、東京で徳信院は亡くなりました。半世紀ほど前に死別した夫・慶壽と同じ墓に埋葬されたそうです。

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