明智光秀と信長の橋渡し役?謎の女「御ツマキ」

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

明智光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのか?という謎はおそらく永遠に解けることはないでしょうが、いずれにせよ二人の間に何らかの溝が生まれていたことは間違いないでしょう。

その溝がなぜ生まれたのか?ということを考えるにあたって、考慮に入れた方が良い、信長と光秀の共通の縁者がいます。

今回紹介するのは、光秀と信長の橋渡し役をしていた可能性のある謎の女性「御ツマキ」です。

「妻木」「ツマ木」とも表記され、名前すらわかっていない彼女ですが、ただ「光秀の妹」であることのみ史料からうかがうことが出来ます。

この御ツマキ、どうも信長とは深い間柄だったようですが、本能寺の変よりの少し前に亡くなっています。

御ツマキの不在がもしかしたら信長と光秀との不和を激しくした……と考えたらちょっと怖いですよね。

謎の光秀妹・御ツマキについて調べてみました。

御ツマキ=御妻木、妻姫?光秀の妹(あるいは妻の妹)と思われる女性

御ツマキはその名前の漢字表記「妻木」から、光秀の正室とされる女性・妻木熙子の妹(つまり光秀の義理の妹では?)とされることが多いようです。

ただ光秀自身の生まれが本当に土岐氏庶流・明智氏なのかも定かではないところがあり、もしも光秀が妻木氏の出身だとしたら、光秀自身の妹である可能性も否定できないでしょう。

一、則、御乳人へ惟任妹御ツマ木殿ヲ以テ被仰出趣者、此申事近年ノ有姿ニ被申付ヘシト内符サマ御意也。依之、惟任ヘ御チノ人被仰候て、此趣以藤田伝五、筒順へ申付ラルヽ也。証文ノ写ハエテ被遣了。同我免除事モ伝五請取テ惟任へ可被仰由也、廿三日ノ事也。被仰出ハ廿二日ノ事也。

引用:『戒和上昔今禄』

御ツマキなるなぞの明智光秀縁者に関する記録はそうそう多くは残されていません。

彼女のことを指すと思われる記録は、主に畿内の寺社に関する記録、また公家の日記類に集中しています。

彼女の名前が最初に出てくるのは、天正五年(1577)のことです。

この記録では、御ツマキは信長の使者として、興福寺と東大寺の橋渡しをしていたことがうかがえます。

少なくとも寺社の争いにおいて、信長の代理人として意向を伝える役割をはたしていたことを考えるならば、彼女はやり手の女官だったのではないでしょうか。

妻木惟向州妹参宮。神事之義以書状尋来、月水之義也。

引用:『兼見卿記』

〈生衣、三スチ、〉進之、其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヤ等ニ、帯<「二筋」

引用:『言経卿記』

明日禁裏之爆竹申付在所、各罷出了。惟任日向守へ為礼下向坂本。路次風寒以外也。午刻着津。面会。百疋持参。妻木五十疋、御祓。下向安土。預置奏者。

引用『兼見卿記』

彼女は天正年間、信長に付き従って上京していました。

明智光秀の縁者(妹)であるということは良く知れ渡っていたようで、彼女のことはもっぱら「惟任妹(姉との表記も)」としてたびたび記録に出てきています。

公家たちは信長や光秀に何か贈り物をするとき、彼女にも贈り物をしていたようでした。

御ツマキの年齢は不明ですが、彼女が「月の障り(=生理)」で寺社参拝をしても良いか吉田家(当時の神祇官の副官)に尋ねている記録があることを考えると、さほど年かさの女性だとは思われません。

少なくとも信長よりは年下であった可能性が高いでしょう。

彼女は上洛している信長に付き従って京で生活することもあれば、兄とされる光秀の坂本城に立ち寄っているときもあったようです。

御ツマキの死

妻木依所勞在京。祓。

引用:『兼見卿記』

去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了。信長、一段ノキヨシ也。向州、無比類力落也。

引用:『多聞院日記』

天正五年に記録に初めて記録の上に出現した彼女でしたが、その死は唐突なものでした。

御ツマキは、天正九年(1581)の8月亡くなります。

天正五年の5月ごろから病気になっている様子が記録に残されていますから、数カ月ほど病で寝込んだ末に亡くなったのではないでしょうか。

年齢は不明ですが、20代~40代という若さで亡くなったものと思われます。

彼女の死の記録において、御ツマキは信長の「一段ノキヨシ」と伝えられています。

キヨシについては古来諸説があるようですが、一般的には「気好し」=「お気に入り」≒側室、として解釈されるようです。

また名前の表記の「ツマキ」も、実は妻木ではなく「妻姫」、つまり信長の妻(側室)だった、という解釈もあるようですね。

彼女の死に対し信長がどう思ったのかは記されていませんが、兄の光秀には大打撃を与えたようで、光秀は「無比類力落也」、とてつもなく落ち込んでいた、と記録されています。

それは妹の死を嘆く兄としての純粋な悲しみだけだったのでしょうか。

気を遣う信長との緩衝材の役割を果たしてくれた妹がいなくなり、これからどう信長と付き合っていけばよいのか、そんな嘆きもあるいは含まれていたのかもしれません。

彼女の死から1年もたたない天正十年六月二日(1582年6月21日)、本能寺の変が勃発します。

その陣中で、あるいは山崎での敗走のさなか、光秀は御ツマキがいてくれたらこのようなことにはならなかったのに、と思っていたかもしれませんね。

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