平岩親吉の妻(正室・側室)と子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『どうする家康』で石川数正らと並んで家康股肱の臣として描かれているのが平岩親吉です。

家康と同年の生まれであることから、家康の小姓となって今川家への人質時代にも付き従うなど、彼は家康幼少期から自身が亡くなるまで、家康に忠実に仕え続けました。

徳川十六神将に名を連ね、後に家康の子を養子としてもらい受けるなど、家康にも重用されてきた親吉ですが、彼の家系は最終的には断絶した……と伝わります。

そんな平岩親吉の妻(正室・側室)と子供、そして子孫にはどのような人物がいたのでしょうか。

気になったので調べてみました。

石川数正の妻と子と子孫たち
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平岩親吉の妻(正室):石川正信(石川源左衛門)の娘

妻三州吉良石河現右衛門尉正信女

引用:『平岩家譜』

室は石川源左衛門正信が女、初め人質となり、江戸にあり。慶長十六年台徳院殿親吉が病危篤にをよぶのよし聞し召れ、暇たまはりて名護屋に赴く。親吉卒するの後、義直卿より采地五百石を宛行はれ、名護屋の城中に在し、清林院と称す。

引用:『寛政重修諸家譜』

平岩親吉の妻(正室)は、松平広忠に仕えた三河の武士・石川正信の娘でした。

彼女の父・正信は小牧・長久手の戦いで討ち死にしています。

彼女がいつ頃生まれていつごろ亡くなったのか、また彼女と親吉がいつ頃結婚したのか、細かな事については何一つとして分かりません。

二人がどのような夫婦だったか、伝わる逸話もありません。

『寛政重修諸家譜』に、少しばかり平岩親吉の正室・石川氏にまつわる記事が載っています。

それによると彼女は人質として江戸に住んでいたそう……。譜代の臣なのに、なぜに。

家康も息子を後継ぎとして与えたから、人質を欲したのでしょうか。

それとも人質とは名ばかりで、江戸城において侍女のような働きをしていたのかもしれません。

そのため人生の後半生では親吉とは別居状態だったみたいですが、親吉が危篤になった際に江戸を離れ、ちゃんと彼の最期を見届けることが出来たみたいです。良かったね……。

親吉死後、正室の石川氏は尾張藩主義直の庇護下に置かれたようですね。

親吉の犬山の所領などは、親吉の生前の意向で義直のものになったようですから、親吉が所領と引き換えに妻の保護なども頼んでいたのかもしれません。

いつごろ亡くなったのかは分かりませんが、ちゃんと領地などももらっていたみたいですから、生活苦に陥ることもなくおだやかにその生涯を終えたのではないでしょうか。

平岩親吉の妻?(側室?):堀隼人正重の母

江戸時代末期に書かれた本に載っている伝承ということで、信ぴょう性は?なのですが……。

平岩親吉が亡くなった後、親吉の後継者を後を途絶えることを惜しんだ家康は親吉の庶子を探し出そうとしたといいます。

そして見つけたのが「親吉との間に生まれたのでは?」という噂のあった堀隼人正重でした。

しかし堀隼人の母親は「この子は親吉様との間に生まれた子ではありません」と拒絶したため、結局彼は親吉の所領を継ぐことはできなかったそうです。

もしもこの堀隼人の話が事実だったとしたら、彼女は親吉の側室?妾?だった可能性が高いですね。

平岩親吉の側室:不明

平岩親吉には後継者たりうる実子がいませんでした。

当時の風潮として、正室との間に子供ができなければ側室を持って、なんとしてでも後継者を作ろうとする武士がほとんどでした。

そのため親吉にも、側室がいた可能性は否定できません。

ただその一方で、老年となった親吉は養子・仙千代の死後新たに養子を迎えることもせず、家系が途絶えるがままにまかせていたようなフシもあります。(一部の所領は甥が継いだりしたようですが……。)

そのため、親吉は自身の家督を誰かに受け継がせることに執着がなく、側室などもとろうとしなかった、という可能性も否定できません。

平岩親吉の子供

親吉曽て在世の間子なしといへども、所存ありて継嗣を請はず。

引用:『寛政重修諸家譜』

親吉其子無ク、

引用:『武徳編年集成』

平岩親吉には子供(後継ぎ)がいなかったと『寛政重修諸家譜』など各種史料に記載されています。

wikipediaとかを見ると、親吉の子供として「縫殿」「伯耆守」が出てくるのですが、記録などを探し出せず……。

史料などを見る限りだと基本的に親吉には「実子がいない」と書かれていますので、この縫殿、伯耆守については何もわかりませんでした。

親吉の夭折した子供か、あるいは養子でしょうか?

縫殿も伯耆守も幼名ではなく官職にまつわる名前なので、どちらも成人男性の名前(通称)のようには思えるのですが。

若くして亡くなった子供がいてもおかしくはありませんが……。

また信ぴょう性は低いですが、堀隼人正重という庶子がいた可能性はあります。

この堀隼人正重、「増山河内守」に仕えていたそうです。

増山河内守、というと江戸中期の文人大名・増山正賢が思い浮かびますが……江戸時代初期に亡くなった平岩親吉の息子が仕えるにしてはだいぶ後の時代の人ですね。

大名としての増山氏は徳川家光の側室・お楽の方の弟の増山正利から始まりますから、堀隼人正重が親吉晩年の子ならその家臣でもおかしくはありません。

が、やっぱりこちらも時代がずれているような。

本当に親吉の庶子(疑惑)のある堀隼人正重は実在したのか、怪しい感じではあります。

平岩親吉の養子:松平仙千代/松平松千代?

某 千千代 或仙千代 実は東照宮の御八男、御母堂は志水加賀守宗清が女。

慶長四年東照宮の仰によりて親吉に養はれたまふ。

引用:『寛政重修諸家譜』

実子のいなかった平岩親吉の家督を継がせるために、家康は何と自身の実子!を養子に出しています。

家康は自分の息子を養子に出して他家の家督を継がせることをたびたびしています。

が、それでも同族松平家やあの名門・武田氏などを継がせていたことを考えると、家臣の家に自身の息子を養子に出したと言うのは本当にすごいことだったように思われます。

そしてこの時親吉の子となったのは、一般的には尾張藩主徳川義直の同母兄・松平仙千代だと言われていますが、異説では家康が嫌った庶子・松平忠輝の同母弟である松平松千代だとも。

どちらにせよ、家康が庶子を親吉の後継者として養子に出したこと、そしてその子供は元服前に亡くなったことは事実のようです。

親吉は養子に迎えた家康の子が亡くなった後、新たに養子を迎え入れることはしませんでした。

その代わり、自身の所領(一部は甥に引き継がせたようですが)や家臣(の一部?)などを尾張藩主・徳川義直に移管したといいます。

徳川義直、松平忠吉の所領も受け継いでいますし、いろんな人からいろんなものを託されていますね。

それだけいろんな人から期待を受けていたのかもしれませんが。

平岩親吉の子孫

平岩親吉には後継者たりうる実子はいなかったようです。

『寛政重修諸家譜』でも子供として記されているのは上述の養子・松平仙千代のみですから、娘などもどうもいなかったみたいですね。

そのため、親吉の直系子孫は存在しない可能性が高いです。

とはいえど、堀隼人正重など、庶子の可能性がある人物はいた様子。

側室、あるいは正式な側室ではない妾などとの間にひそやかに生まれていた子が子孫を残した……という可能性は比定できませんね。

また親吉には甥が幾人かおり、例えばその甥の一人・平岩吉範は親吉死後も数年間(元和三年【1617】まで)犬山の地の領主であったようです。

親吉の兄弟姉妹の子供たちが、後世まで平岩氏の血をつないでいったようですね。

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