平家の栄華の立役者 建春門院 平滋子

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

さて、今回ご紹介する女性は、美福門院に負けず劣らずのシンデレラ、かつ、実家を盛り立てていったという点では、美福門院よりもすごいかも?な女性です。

建春門院 平滋子 後白河后 高倉母 兵部少輔平時信女 母民部卿顕頼女 仁安元十二十一 叙従三位 同二正二為女御 同三三二十 為皇太后 天皇即位日 嘉応元四十二戊戌 院号

『女院小伝』より

堂上平氏に生まれて

いわゆる「平家」といったら武士のイメージですよね。
武家としての平家の中でも「伊勢平氏」から出たのが平清盛です。
一方、滋子が生まれたのは文官として朝廷に仕えていた、「堂上平氏」という家柄でした。(伊勢平氏とは遠い親戚になります。)
滋子の父は、兵部権大輔・平時信で、母は中納言・藤原顕頼の娘でした。

彼女の異母姉の時子が清盛に嫁いでいたため、滋子にとって清盛は遠い親戚かつ、義兄に当たります。

さてさて中級貴族の娘として生まれた滋子は、年頃になると上西門院(後白河天皇の同母姉)に仕えるようになりました。

上西門院についてはこちら


異母兄(時子の同母弟)の時忠が当時右少弁だったため、兄の官職から、「小弁」と名乗り始めます。

あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか 

『たまきはる』 より

言ふ方なくめでたく、若くもおはします 

『建礼門院右京太夫集』 より

小弁の局は、大層な美人だったそうです。
さて、そんな美女を世間が放っておくはずがなく。

ほどなくして、小弁の局にメロメロになってしまった男性が出てきます。

後白河天皇に愛されて

上西門院の弟、後白河天皇です。

後白河天皇は当時すでに息子(二条天皇)に皇位を譲り、上皇として院政を行っていました。
上皇として天皇の時と違い自由な生活を送る中で、姉のもとを訪ねることもあったのかもしれません。

そして、15歳も若い滋子に出会い、人目もはばからず熱愛します。

応保元年、院御所・法住寺殿が完成すると、後白河天皇は、正妃の徳大寺忻子とともに滋子も住まわせるようになりました。
(正妻と愛人?側室?の同居って昔はよくあることですけどやっぱり不思議な感じがする……)

この頃には滋子は大出世!女房の名前では一番高貴とされていた「東御方」を名乗るようになります。

上臈 東御方 南御方 西御方…(中略)…小上臈…(中略)…中臈 督殿 大弐 卿殿 弁 …(後略)…

『古事類苑 姓名部十 名下』より 『薩戒記 部類二 女房名事』

そしてこの年、滋子は皇子を生みました。

二条天皇との対立

滋子が皇子を生んだことで平家一門は大ハッスルします。
特に大ハッスルしたのが滋子兄の時忠です。
滋子の皇子・憲仁を次の天皇にしようと画策します。

(滋子の兄の時忠はわりとお調子者だったようで「平家にあらずんば人にあらず」といったのもこの人だったとか。)

滋子の産んだ子は第七皇子、さらにすでに後白河天皇の第一皇子が二条天皇として即位している状態ではたしてそんなことができるのか……?
大丈夫です、美福門院の例がありますから。
さらにこの頃、自分で政治をしようとしていた二条天皇と後白河天皇の仲がぎくしゃくしているのもありましたので、実現しそう……と時忠は考えたのではないでしょうか。

しかし陰謀は露見、兄時忠は失脚します。滋子本人は、姉の時子が二条天皇に仕えていたことから、かろうじて連座を免れました。
しかし皇子の憲仁の未来はお先真っ暗。
さらに二条天皇は弟を跡継ぎにされたらたまらないと思ったのでしょうか、自らは上皇になり、まだ赤ん坊の息子を天皇にたててしまいました。
そして院政を展開……するはずだったのですが。

我が世の春

なんと二条天皇、若くして亡くなってしまいます。
さらに二条天皇よりだった姉時子の夫、平清盛も、後白河天皇派へと鞍替えしました。

もう怖いものはありません。

滋子の息子、憲仁は、天皇の叔父(二条天皇の弟)でありながら、皇太子になります。
同時に滋子は女御に叙せられます。

そしてまだ幼児である天皇(六条天皇)はすみやかに退位させられ、仁安三年に、滋子の息子、憲仁が即位します。
後世、高倉天皇と呼ばれることとなります。

そして高倉天皇即位の翌年、滋子は女院「建春門院」となります。そんな彼女の周りを固めるのは、平清盛、平時忠ら平家一門でした。

ここに平家の栄華は決定的になります。

花のようにはかなく散る

女院として、滋子は平家一門の栄華を盛り立てました。
滋子の息子、高倉天皇の妃には清盛の娘、徳子が選ばれましたが、この徳子の後見役も滋子はしました。

さらに平家主導での厳島神社への、後白河天皇の御幸なども行いました。
後白河天皇の寵愛は衰えることなく滋子にそそがれ、御幸の際には滋子も同行していました。

しかし、安元2年、滋子は急病に倒れます。病名は「二禁(にきみ)」、いわゆる腫物の病気でした。(皮膚がんなどだったのではとも言われています。)
後白河天皇は加持祈祷や看病に精を出しますが、滋子は35歳でこの世を去りました。

滋子の死後、後白河天皇と平清盛の間の対立は激しくなっていきます。

滋子の死後の平家の話は、次の女院の話の中でしていきましょう。
次の女院は平家物語のヒロインです。

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