足立遠元の家紋は何?お墓はどこ?公文所ではどのような役割を果たしたの?

「13人の合議制」の1人に名を連ねるのが武蔵国の武士、足立遠元です。北条義時、大江広元らスターぞろいのメンバーに比べると、いまいち影が薄いような足立遠元ですが、実際どのような人物なのでしょうか。ここでは、足立遠元の家紋、墓、公文所での活躍についてご紹介します。

足立遠元の家紋は扇紋と酢漿草紋?

家紋が武家の間で広まったのは鎌倉時代以降のことなので、もしかしたら足立遠元自身は家紋を持っていなかった可能性もあります。しかし、足立遠元の子孫たちが使っていた家紋については分かっているため、足立遠元もその家紋を使っていた可能性があります。

足立遠元の孫、足立遠政の五輪塔が丹波国山垣城の山麓に残っています。その五輪塔をとりまく石扉には、酢漿草紋と五本骨扇紋が刻まれています。また丹波足立氏の菩提寺でもあった報恩寺の足立氏代々の墓所にも、五本骨扇紋や酢漿草紋などが刻まれています。

扇紋は佐竹氏など多くの大名、武家に好まれた家紋ですから、足立遠元の家紋が扇紋であってもまったくおかしくはありませんね。酢漿草紋は北陸地方に多い家紋とのことですから、もしかしたら足立遠元は使っておらず、子孫が丹波に移住した後に使いはじめた紋かもしれませんね。

足立遠元の墓所は不明

足立遠元の墓がどこにあるかは実はよくわかっていません。彼が本拠とした武蔵国足立郡にあったのか、それとも鎌倉にあったのか……。いずれにせよ、遠い歴史の中に埋もれてしまったようです。足立遠元は鎌倉に屋敷等も持っていたはずですが、その屋敷もどこにあったのかは分かっていません。

足立遠元の子孫はあまり幕府中枢に絡んでいないようですから、そういったことも影響して墓所が不明なのかもしれませんね。足立遠元の位牌は、丹波国の足立氏菩提寺報恩寺にて、息子遠光、孫遠政といっしょにまつられているそうです。

足立遠元の公文所での役割は?

足立遠元は公文所において、別当大江広元の下の、5人の寄人のうちの1人に選ばれています。他の寄人(中原親能、二階堂行政、藤原邦通、大中臣秋家)がいずれも京の公家系の文人官僚(藤原邦通がはたして官僚だったかは分からないのですが、『吾妻鏡』によると京出身であることは間違いないようです)的な人物だったのに対し、足立遠元は娘を介して院近臣とつながりこそあれ、あくまでも武士であります。

公文所において、足立遠元は文人ではなく、武士の立場を重んじて仕事をしたのではないでしょうか。京の実務官僚だった他の4人にはわからないであろう武家の慣習や、慣例法をおさえた仕事をしていたように思われます。

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