凄腕の甲賀者?伴与七郎資定

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

『どうする家康』においては野間口徹さんが眼鏡なしで演じることでも話題になった鵜殿長照。

この鵜殿長照を討ち取ったと言われるのが甲賀者の「伴与七郎」なる男でした。

これ以後は史料において登場せず、上ノ郷城攻略戦にのみ表舞台に立った甲賀者・伴与七郎資定がどのような人物だったのか調べてみました。

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伴与七郎は甲賀の武士

伴与七郎は甲賀の有力国人・多羅尾光俊によって、上ノ郷城を調略していた家康のもとに派遣された武士でした。

伴、というのは一般的に古代豪族・大伴氏の末裔が名乗る苗字ですね。

また甲賀においては伴家は「柏木三家」といい、甲賀五十三家筆頭・望月家に次ぐほどの甲賀忍者軍団の名門の家柄でもあります。

家格だけでいったら多羅尾氏(甲賀五十三家内ではあまり席次が高くない)よりも良いはずなのですが……おそらく供与七郎は伴一族の中では傍流のほうだったのではないでしょうか。

ちなみに、『三河後風土記』によると、伴与七郎の諱は「資定」だそうです。

ちなみに他に、伴太郎左衛門資家、伴伯耆守資継なる人物もこの上ノ郷城攻めに参戦していたとのことです。与七郎の兄弟とか同族なのでしょうか?

もしかしたら伴与七郎は一家総出で上ノ郷城攻めに参陣していたのかもしれませんね。

伴与七郎、鵜殿長照を討ち取る

伴与七郎は甲賀の有力国人・多羅尾光俊の指示のもと、上ノ郷城を攻める家康の陣に加わったといいます。

多羅尾光俊は当初近江の六角氏に属していましたが、その後は尾張の織田信長に誼を通じるようになっていました。

おそらく織田信長の同盟相手である家康を助けるために、甲賀からつわものどもが派遣されていたのでしょう。

上ノ郷城を攻めるにあたって、伴与七郎ら甲賀衆は火計を用いて場内を大混乱に陥れます。

浮足立った鵜殿軍は敗走、その中に大将・鵜殿長照もいました。

落ち延びようとした鵜殿長照を伴与七郎はものの見事に討ち取ります。

さらに与七郎の働きは目ざましく、与七郎はさらに鵜殿長照の子息・氏長の生け捕りにも成功しました。

与七郎が生け捕った氏長と、その弟である氏次は、のちのち今川方にとらわれたままだった家康の妻子(正室・築山殿と嫡男信康、長女亀姫)との人質交換のコマになりました。

家康としては、与七郎のおかげで家族を取り戻すことにもつながったわけです。与七郎に足を向けて寝ることはできなかったでしょう……。

家康は与七郎の働きに対して感状を出しています。

感状は戦国時代において、武士の力量を示す物の一つで、仕官へもつながるようなものでしたから、家康なりの精一杯のお礼だったのでしょうね。

伴与七郎のその後

家康にとってまさに大恩人である伴与七郎ですが、その後家康の家臣となった……なんてことはなかったようです。

これ以後、歴史の舞台に伴与七郎の名前が出てくることはありませんでした。

これ以後の与七郎の運命がどのようなものだったのか、今となっては何もわかりません。

ただ多羅尾氏によって派遣されているわけですから、終わった後は普通に甲賀に戻ったのではないでしょうか。甲賀で、仲間相手に家康からの感状を自慢なんかもしていたかもしれません。

ちなみに、家康と甲賀の関係はこれ以降も続き、本能寺の変後のいわゆる「伊賀越え」の際に、甲賀の武士が家康を警護したりなんてこともありました。

家康は伊賀越えを助けてくれた甲賀の武士を重用します。

例えば多羅尾光俊ら、多羅尾氏は代官の世襲を許されています。

伴与七郎も、名前が出てきていないだけで、もしかしたら上ノ郷城攻略戦後、例えば伊賀越えの時などに再び家康を助ける……なんてこともあったのかもしれませんね。

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