徳川家綱の妻(正室、側室)たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

徳川家光の後継者となったのは、家光の長男・家綱でした。

「左様せい様」つまり、政治の主導権を握らず家臣の言う通りに任せていた、などとも言われていますが、叔父・保科正之らのサポートもあり、家綱の時代は比較的穏やかな時代だったといいます。

そんな家綱ですが、それまでの将軍とは異なり子女には恵まれませんでした。

―が、彼には妻がいなかったわけではありません。彼は正室と2人の側室を生前に迎えていました。

ここでは、徳川家綱の正室と2人の側室についてまとめました。

徳川家光の妻(正室・側室)たち
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正室:浅宮(高巌院/顕子女王)

御台所 二品式部卿伏見宮貞清親王ノ姫宮浅宮ト号

引用:『徳川幕府家譜』

伏見貞清親王息女浅宮、将軍徳川家綱に降嫁、是日入輿の儀あり、酒井忠吉御迎役を勤む、

引用:『酒井家編年史料稿本』

家綱の正室は、伏見宮貞清親王の王女・浅宮でした。

浅宮の母親は、貞清親王の正室(御息所)・宇喜多秀家の娘(豊臣秀吉の養女)だと言われていますが……。

御息所所生の兄・邦尚親王と浅宮が20歳以上年が離れていることを考えると、どうも同母兄妹とは思えないから、おそらく家女房の所生で、御息所の養女(娘)として育てられていたのではないでしょうか。

いずれにせよ、京で蝶よ花よと育てられた宮家の姫君であったことは間違いないでしょう。

ちなみに伏見宮の系図だと、彼女の姉・泰岳聖崇(出家して曇華院の尼僧となっています)もまた「浅宮」と呼ばれていたと書かれているので……もしかしたらかつては別の名前で呼ばれていたのかもしれません。

ちなみに『幕府祚胤伝』だと「安宮」となっているようですが、これはおそらく彼女の姉・照子女王(紀州藩主・徳川光友の妻)の称号のようですね。

さて、浅宮は明暦三(1657)年、数え年18歳で若き将軍・家綱の妻となりました。将軍家綱よりは1歳年上ですが、歳周りも近くお似合いの二人だったと思われます。

家綱の父・家光は摂家の姫君を母親の養女としたうえで妻に迎え入れてましたが、ここにきて皇族との結婚とはすごいですね。

この婚姻は家綱の叔母・東福門院和子主導で行われたそうですから、和子がそうだったように、天皇家と将軍家の橋渡しを期待されていたのかもしれません。

家綱以後、将軍の御台所は十一代目・家斉の御台所(薩摩藩島津家の姫君で近衛家の養女)を除いて皆、摂家か皇族から迎え入れることとなります。

家綱との夫婦仲がどのようなものだったのかは分かりません。

ただ家綱は父・家光に比べても格段に側室の数が少ないので、それなりに正室に気を使っていたのではないでしょうか。

浅宮は延宝四年(1676)に30代後半の若さで亡くなりますが、一説には乳がんだったといいます。

浅宮が病に倒れたとき、驚いた家綱は彼女にしっかりと治療を受けさせようとしました。

というのも、当時、医師が御台所を診察する場合、基本的には脈を図るくらいしかできなかったんですね。

しかし、浅宮は「下賤のものに直接触れられるくらいなら死を選びます」と宣言、文字通り医師にその体に触れさせることなく、従容と死を迎えました。

たおやかながらも意志の強い、まさに高貴な姫君だったのだろうと思わせるエピソードですね。

側室:お振の方(養春院)

公家の吉田兼起の娘で、弟の吉田兼敬の養女となっていました。彼女の姉妹(姪)たちはいずれも公家に嫁いでいます。

ちなみに父の吉田兼起を通して、古今伝授も受けた文化人武将・細川幽斎の子孫でもあります。一条家に嫁いでいた細川家の伊也が再婚して生まれた子供の子孫ですね。

細川家のお市の方・細川伊也
戦国時代の悲劇的な女性として有名なのは、織田信長の妹・お市の方ではないでしょうか。 兄によって夫を殺されるという悲劇は、今もなお語り継がれています。 とはいえど、戦国時代には同じような運命をたどった女性は多くいました。 今回はその...

お振は、寛文五(1665)年、京から江戸に下向して大奥へ入りました。なぜお振が大奥入りしたのか?正確な理由は分かりません。

当時将軍家綱は結婚してから5年ほどたっていましたが子供は生まれていませんでした。

そこで浅宮付きの侍女・姉小路局や飛鳥井局らの主導で、浅宮に忠実な、子を産むための側室として呼び寄せられたのかもしれません。

大層な美女だったそうで、「吉祥天女」とも呼ばれたほどだったとか。

その美貌ゆえか、家綱の寵愛を独占します。側室となってから2年後、待望の妊娠を果たしましたが……妊娠中に急な熱病にかかり、お腹の子供ともども亡くなってしまいます。

まだ20歳にもなっていませんでした。

側室:お満流の方(円明院)

女子 厳有院の御側ちかくつかへたてまつり、薨御ののち尼となり、月俸五十口をたまはり、死してのち月俸のうち二十口を其母 遠山氏の女 にたまふ。

引用:『寛政重修諸家譜』

旗本の佐脇安清の娘で、お振の方が亡くなった後に大奥にて寵愛を受けました。

お振の死から10年ほどたった延宝六(1678)年、待望の妊娠を果たしますが、結局流産に終わりました。

その後しばらくして家綱自身も亡くなり、主人を失った彼女は尼となってひっそりと生活を送ります。

元側室ということもあり、幕府からは手当が出ていたようですから、暮らし向きには困らなかったのではないでしょうか。

家綱の死からおよそ10年後、30歳で死去しました。

亡くなった後、彼女が受け取っていた年金は、実母の遠山氏、さらに彼女の弟である、佐脇龍章が受け取るようになったとのことです。

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