茶屋四郎次郎の一族~出自・妻・子孫たち~

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

家康と関係の深い商人の代表格として語られるのが、京の豪商・茶屋四郎次郎です。

江戸時代初期の朱印船貿易などで莫大な資産を儲け、角倉了以・後藤四郎兵衛らと並んで「京の三長者」とも称せられました。

また初代茶屋四郎次郎は若い頃家康に仕えていた……ともいわれており、家康の伊賀越えで金策に奔走したとも言われています。

その茶屋四郎次郎ですが、どのような生まれの人物だったのでしょう。

茶屋四郎次郎の一族(両親・妻・子孫など)について調べてみました。

茶屋四郎次郎の出自と名前の不思議

茶屋四郎次郎という名前は、正確にはあだ名(通称)に近く、彼の正確な名前(諱)は、中島清延だといいます。

武士みたいな名前だと思った人がいたら、ドンピシャで正解です。

茶屋四郎次郎は信濃国守護・小笠原氏(清和源氏)の庶流で家臣であった中島氏の出身でした。

山城国蟹江城城主・小笠原小太郎貞興の孫、小笠原宗延が山城国中島の地を得たことから「中島氏」と名乗るようになったようです。

小笠原氏支流の中島氏は、家康の家臣となった家も散見され、寛政重修諸家譜にもいくつか「中島氏」が掲載されています。

中島宗延の子・明延はのちに武士をやめてしまい、大永年間(1521~1527)頃に京で呉服屋になったといいます。

戦国時代くらいはまだ武士と農民・商人の身分は流動的で、武士が農民になったり、商人になることも珍しくありませんでした。

たとえば斎藤道三が油商人(道三の父という説あり)からのし上がったという話があることは有名ですよね。

そして商人になった明延の後継者が中島清延、初代茶屋四郎次郎でした。

ちなみに、茶屋四郎次郎の名前「茶屋」は実は苗字ではなく、正確にいうと屋号です。

茶屋四郎次郎の経営していた呉服屋さんが足利将軍家と懇意にしており、将軍が茶を飲むために立ち寄っていたことがあることからついたと言われています。

ちなみに、「四郎次郎」という名前は不思議に思う人も多いでしょう。四郎なの?次郎なの?と現代人の感覚からだとなってしまいますよね。

実は「四郎次郎」という名前の意味するところは、正確には「四郎の次郎」であり、つまるところある人の四男の次男、という意味合いだそうです。

ちなみに茶屋四郎次郎の父・明延は「四郎」と名乗っていたそうです。

もしかしたら初代茶屋四郎次郎こと中島清延には兄がいたのかもしれませんね……。

茶屋四郎次郎の妻

初代茶屋四郎次郎の妻にどのような女性がいたのかは分かっていません。

茶屋四郎次郎には少なくとも4人の息子がいたようですから、誰かしらと結婚はしていたと思われますが……。

この時代の商家に嫁ぐ女性の出自は様々であり、たとえば近い時代だと、角倉了以孫・角倉与一(与市)には前田利家の孫娘(西軍についた次男・前田利政の娘)が嫁いでいます。

また、尾形道柏(同じく商人で尾形光琳・尾形乾山の祖先)は、やはり町人であった本阿弥光悦の姉を娶っていたといいます。

そう考えると、茶屋四郎次郎の妻は、角倉家など、商家の女性だったのか、あるいは小笠原氏・中島氏ゆかりの武家の女性だったのか。

そのあたりが妥当なような気がしますが……想像は尽きませんね。

茶屋四郎次郎の子孫たち

初代茶屋四郎次郎には、少なくとも4人の息子がいました。

後を継いだのは長男の清忠でした。彼は父の号である「茶屋四郎次郎」を継承しますが、父の死からおよそ7年ほどで亡くなっています。

亡くなったときはおそらく20代~30代であったと思われますね。後継者となったのが養子に出ていた次弟・清次であることを考えると子孫はいなかったのではないでしょうか。

慶長の末、洛南茶屋四郎次郎に吉利支丹内見を命せらる、

引用:『通航一覧』

次男・清次は長崎奉行・長谷川藤広(元は伊勢北畠氏の家臣)の養子になっていたそうですが、兄の死にともなって実家に戻ることとなり、三代目の茶屋四郎次郎となります。

ちなみに、朱印船貿易でウハウハに儲けたのがこの茶屋四郎次郎です。

かつての義父・長谷川藤広は長崎での朱印船貿易の管理者ですから、もしかしたらその縁もあったのかもしれないですね。清次自身も、義父を補佐する役目についていたといいます。

とはいえど、彼も長生きはせず、元和八(1622)年に亡くなっています。その後は清次の家系が本家の茶屋四郎次郎家として幕末まで続きます。(血筋の上では、孫の代に養子を迎えたりしているため、途絶えている可能性も高いです……)

朱印船貿易ができなくなった後の茶屋四郎次郎家は、呉服・生糸商人として活動しています。

しかし、本家の京の茶屋四郎次郎家は、寛政十二年(1800)、十代延国(延因)の時に呉服御用差し止めを受けます。

数年後に禁はとかれたものの、明治維新後に江戸幕府との近さゆえに、廃業へ追い込まれます。

本家の茶屋四郎次郎家は細々と家系をつないでいたようですが、近年、断絶しました。

ちなみに最後の当主は府営住宅に住むなど、あまり生活ぶりは良いものではなかったようです。

茶屋四郎次郎の四男・宗清の家系は紀州茶屋家となりましたが。こちらもすでに断絶しています。

茶屋四郎次郎の家系では、三男新四郎長吉の尾州茶屋家が唯一、養子などを迎えながらも現在まで続いています。

ちなみに東京福祉大学の創設者の中島恒雄氏が現在の尾州茶屋家当主で、ご先祖様にちなんで「学校法人茶屋四郎次郎記念学園」と学校法人名に名前を残しています。

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