江戸幕府9代目将軍・徳川家重の妻(正室・側室)たち

近世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

排尿障害、顔面麻痺などの障害を持ちながらも、人材登用に優れていたことから「隠れた名君」とも目されている不思議な将軍が、八代将軍吉宗の嫡男・家重です。

家重は一説には大奥にて好色にふけったともいわれていますが、家重にはどのような妻がいたのでしょうか?

ここでは、家重の妻(正室・側室)についてまとめてみました。

徳川家重の正室(御簾中):比宮増子女王

家重は将軍就任前、世子であった時代に伏見宮の姫宮、比宮増子女王を正室に迎えています。

彼女は伏見宮邦永親王と家女房の近藤氏との間に生まれた姫宮で、吉宗の正室・理子女王の姪に当たる女性でした。彼女の同母姉・輔子女王は今出川家に嫁いでいます。

家重20歳、増子女王21歳の時に二人は婚姻を果たします。

二人はそれなりに仲睦まじかったようで。結婚の翌年には隅田川で舟遊びをした記録なども残っています。

結婚から2年後、増子女王は懐妊しました。

しかし早産・死産の果てに亡くなってしまいます。その後、家重は再び正室を迎えることはありませんでした。

吉宗がそうしたように、家重もまた、自身の次男・清水重好(徳川重好)の正室に増子女王の姪にあたる田鶴宮貞子女王を迎えています。(この婚姻では残念ながら子は生まれませんでした。)

家重もまた、この正室のことを慕わしく、懐かしく思っていたのかもしれません。

徳川家重の側室:お幸の方(至心院)

家重の嫡子・家治を産んだのは公家・梅渓通条の娘であるお幸(幸子とも)の方でした。

梅渓家は村上源氏の久我家の傍流で、父の梅渓通条は梅渓家当主として正二位・権中納言まで上っています。

お幸の方は、比宮増子女王の女中(おそらく上臈でしょうか)として、江戸に下りました。

主の増子女王亡き後、いつのころからか彼女は家重の寵愛を受けるようになります。

二人の距離が縮んだのは何なのでしょうね。

家重がもともと目をつけていたのか、それとも増子女王の思い出を語らっているうちに仲が近づいたのか……。

増子女王の死から4年後の元文二年(1737)に、お幸の方は家重の嫡男となる竹千代(後の10代将軍・徳川家治)を儲けます。

何気に大奥の中では、初めて公家の娘で将軍生母となった女性でもありますね。(お万の方など、側室ではちらほら公家出身者はいたのですが、子が産まれなかったり、生まれても早世したりしていますので……。)

家治、そして将軍吉宗の悦びはひとしおだったでしょう。

お幸の方は「お部屋様」と呼ばれ、我が世の春を満喫します。

しかし、このころから、家重には他の女性の影がちらつくようになっています。

彼女の年齢は比宮増子女王と同年代~少し下と思われるため、お褥滑りの年齢を迎えていたのかもしれません。

とはいえど世継ぎの母ということもあって、その権威は盤石なもののように思われました。

竹千代以後、お幸の方は子を産むことはありませんでしたが、家重の将軍就任に伴って、お幸の方も大奥入りし、従三位に叙されます。

しかしこの少し前、家重の別の側室・お遊喜(お千瀬)の方が家重の次男を産んでいました。

そして―このころ、なぜかお幸の方の姿が大奥内で見受けられなくなります。

実は、お幸の方は家重の不興を買って、大奥内に閉じ込められてしまったのです。

一説には、女遊びに耽溺するようになった家重をお幸の方がいさめたからだとも、嫉妬に狂ったお幸の方が家重とお遊喜(お千瀬)の方が共に過ごしている場所に乗り込んできたからとも―

最終的に、そのことを聞いた大御所・吉宗の仲裁でお幸の方は解放されましたが、お幸の方と家重の関係は結局うまくいかないままだったといいます。

閉じ込められた時に病気にでもかかったのでしょうか、それからさほど時をおかずに、お幸の方は亡くなってしまいます。

とはいえど、お幸の方が残した家重の息子・竹千代は祖父・吉宗の鍾愛もあってか、無事に成長し10代将軍となりました。

徳川家重の側室:お遊喜の方(お千瀬、お逸、お遊の方とも、安祥院)

御部屋於遊喜之方 松平又八郎親春之養女 実ハ浪人三浦五郎座衛門娘

引用:『徳川幕府家譜』

実は三浦五郎左衛門義周が女にして、親春に養はれ惇信院殿の御側近く仕へ奉り、清水中納言義京の母堂たり。

引用:『寛政重修諸家譜』

家重の後半生において寵愛をほしいままにしたのがお遊喜の方でした。

お遊喜の方は、浪人の三浦五郎左衛門義周の娘として生まれます。

その後、譜代大名・形原松平家の庶流の生まれである御家人・松平又十(八とも)郎親春の養女となって、大奥に出仕するようになりました。

彼女は出仕を始めた元文元年(1736年)は、ちょうど家重がお幸の方を寵愛していた頃です。

彼女は寵愛を受けて妊娠していたお幸の方のどんな思いで眺めていたのでしょう。

うらやましく思ったのか、それとも自分が奪いとってやると勝気に思っていたのか―

家重より10歳ほど年下、おそらくお幸の方よりも若かったお遊喜の方は、お幸の方の寵愛が薄れるにつれ、家重の歓心をかうようになります。

延享2年(1745年)、彼女は家重の次男・重好を産みました。

同年、家重は将軍に就任し、お遊喜の方も側室として大奥入りします。

大奥入りした後は、お幸の方の早世もあって、彼女がもっぱら家重の大奥の中心人物となったようです。

彼女の産んだ重好は、父・家重と叔父・田安宗武が険悪な関係だったのに対し、兄・家治とはそれなりに仲良くやっていたようです。

ただ重好には子供がいなかったこともあり、兄・家治の後継者となることはありませんでした。

お遊喜の方は、家重の死後は落飾し、その後徳川家の分家(御三卿)である清水家を立てて独立した重好のもとで生活を送りました。

ちなみに家集「心乃月」を残すなど、風流な一面も持っていたようです。

公家の娘であるお幸の方への対抗心ももしかしたらあったんでしょうか。

タイトルとURLをコピーしました