豊臣秀頼の側室たち

近世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

豊臣秀吉の息子、秀頼。

2代目将軍・徳川秀忠の娘を正室に迎えるなど、徳川家との融和もはかりますが、徳川家康の警戒をかわすことができず、最終的に大坂冬の陣・夏の陣で、母の淀殿ともども、その生涯を終えました。

さて、そんな秀頼の正室が徳川秀忠の娘・千姫であったことは有名な話ですが、実は秀頼には側室がいたことが知られています。

秀頼と千姫との間には子供は生まれませんでしたが、秀頼は側室との間に一男一女を儲けています。

ここでは、秀頼の側室について調べてみました。

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豊臣秀頼の側室:小石の方(成田氏)

豊臣秀頼には公的記録では2人の子供(国松、天秀尼)がいたということになっていますが、その2人を産んだのでは?と言われているのが小石の方です。

小石の方は成田氏の出身とされ、秀吉側室の成田甲斐姫と同族とされています。

小石の方の父親の名前はよく分かっておらず、成田五兵衛助直、成田五兵衛親躬などと記録があります。ただこの成田五兵衛、詳細は一切不明で『成田系図』等にも名前が出てきません。

また、成田氏であっても成田甲斐姫のように関東出身ではなく、伊勢北畠氏に仕えていた成田隼人正の娘であるとの説もあります。

さらには、秀吉側室の成田甲斐姫自身の娘である!という説まであるみたいですね。

秀頼は21歳(数え年23歳)で亡くなっていますが、子供たちの年齢を考えるとかなり若いうちに父親になったようです。

小石の方の年齢はわかりませんが、秀頼とは同年代、あるいは少し年上だったのではないでしょうか。

小石の方の息子・国松は正室である徳川秀忠娘・千姫を憚って、淀殿の妹の嫁ぎ先である京極家に預けられていましたが、大坂の陣の際に大阪城に呼び戻されました。

大阪城落城の際には、秀頼と別れの盃を交わしたとも伝わります。

国松は大阪城落城後、大阪市中に逃げ込みますが、徳川方の探索の手を逃れることはできず、最終的には見つかって処刑されてしまいました。この時7歳(数え年で8歳)だったと伝わります。

小石の方の娘、天秀尼は国松の年子の妹でした。

彼女は兄同様京極家で育てられたのか、それとも大阪城で育ったのかはよく分かりません。

天秀尼も兄同様に大阪城落城を生き延びますが、徳川方に捕まってしまいます。

しかし兄とは違い女子だったため、助命されました。義母にあたる千姫の助命嘆願なども効果を発揮したようですね。

ただ徳川家として、豊臣の血を残すことは許すことはできなかったのでしょう。天秀尼は鎌倉の古刹・東慶寺にて出家し、生涯独身で過ごすこととなります。

ただ徳川家の姫君である千姫の養女だったということもあり、天秀尼は幕府相手にも渡り合える存在でした。

東慶寺はのちに縁切寺となりますが、これは天秀尼の働きによるものでした。

さて、小石の方の子供たちの行く末については分かりましたが、肝心の小石の方は大阪城落城時にどうなったのでしょう。

秀頼との間に子供をなすほど親密な側室であるならば、大阪城落城時に秀頼と運命を共にしていそうですが……そのような記録は残っていません。

小石の方が子供を産んだのは慶長13年と14年のことで、大阪城落城のおよそ6年前のことです。

もしかしたらこの6年の間に、病魔などによって亡くなっていた可能性も否定できませんね。

あるいは、ひそかに大阪城落城を生き延び、どこかで豊臣家のことを思いながら生きていたのかもしれません。同族である成田甲斐姫のもとに身を寄せていた可能性もありますね。

豊臣秀頼の側室:伊茶の方(別名?:和期の方)(渡辺氏)

小石の方は秀頼の子供2人(国松、天秀尼)を産んだという説もありますが、国松のほうは別の女性が産んだとする説もあります。国松の母とされる女性が、伊茶の方(和期【わご】の方という別名もあるようです)です。

伊茶の方の父は渡辺吾兵衛【五兵衛】助直と言われています。

伊茶の方の父親についても前述小石の方との混同があるようで、渡辺氏ではなく成田五兵衛、また成田氏、渡辺氏でもなく伊勢の何某の娘だとも。

渡辺五兵衛助直という名前自体、小石の方の父とされる成田五兵衛助直と一緒ですね……。

ちなみに、「和期の方」という名前は、松永久秀の孫娘で、伊勢氏出身の上臈女房・阿古御局(本名:菊)も使用しています。おそらく菊は伊茶の方とは別人なのですが……。

伊勢氏は、成田氏が仕えていた小田原北条氏の祖・北条早雲の出身一族だとも言われていますし、伊茶との関連性もあって同じ女房名を使用していたのでしょうか。

それとも、実は同一人物だったりするのですかね?

阿古御局こと菊は、大阪城落城時に豊臣家に殉じ、亡くなりました。

伊茶の方がどのようになったのか、歴史は何も伝えません。ただ、秀頼にそば近く仕えており、子までなした伊茶の方も、他の侍女たち同様に秀頼に殉じた可能性も高いでしょう。

豊臣秀頼の側室?:甲斐姫(成田氏)

甲斐姫は、一般的に豊臣秀吉側室として有名ですね。

甲斐姫は、武蔵国忍城城主・成田氏長の娘で、武勇と美貌に恵まれた女性でした。

小田原征伐の際に、豊臣軍が忍城に押し寄せてきた際には、一族郎党ともども果敢に豊臣軍と渡り合ったと言われています。

小田原征伐後、甲斐姫は豊臣秀吉の側室になり、秀吉晩年に行われた醍醐の花見などにも参加したとも伝わります。

また、淀殿とも良好な関係を築いており、秀頼の養育係を務めた……なんて説もあるようです。

さて、そんな成田甲斐姫ですが、実は天秀尼の母親だという伝承があります。

もしもそれが本当だとしたら、秀頼は父親の側室を自身の側室!にしたことになりますが……。

日本の歴史でもそういった事例はないわけではないですが(たとえば平安時代に、関白の藤原道隆は自身の父の側室を自分の側室にしたりはしています)、「おやこたわけ」と呼ばれるなどあまり良い印象のない結婚ですから、可能性は低いように思われますね。

一説には、成田甲斐姫は秀頼の側室・小石の方に代わって、天秀尼を養育していたとも言います。

養母であったことが、いつの間にか「実母」と伝えられるようになった……と考えるとしっくりきますね。

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