木曽義仲(源義仲)の妻子と子孫たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

平清盛の没後すぐに平家を都から追い落とし、一時的に京の都の覇者となったのが、朝日将軍・木曽義仲(源義仲)です。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では青木崇高さんが演じる予定の木曽義仲(源義仲)ですが、木曽義仲(源義仲)の妻や子供にはどのような人たちがいたのでしょうか。気になったので調べてみました。

木曽義仲(源義仲)正室:摂関家(松殿家)の姫君(藤原【松殿】伊子/冬姫?)

木曽義仲(源義仲)は、京の都に攻め上った時点ですでに10歳を超えた息子・義高がいましたので、木曽にいた時点で妻(もしくは妾?)がいたようです。

しかし、京の都に攻め上った後に木曽義仲は、摂関家の松殿基房の娘・伊子と結婚したと言われています。

伊子の父の基房は当時摂関の地位を追われていたため、権力者である木曽義仲と繋がろうとしてこの結婚が行われたようです。

この結婚の結果、伊子の弟の師家は摂政の地位を得ることが出来ましたので、政略結婚としてはなかなか上々の結果をもたらしたのかもしれません。

伊子は一説には、寿永二年(1183)、義仲との結婚時には17歳だったそうです。結婚時30歳の義仲とは13歳差の夫婦ですね。

しかし、木曽義仲はそれから間もなく都を落ち延びる羽目になり、結婚から半年もたたない寿永三年三月に義仲は討ち死にしてしまいます。

義仲との結婚生活は短いものでしたが、義仲は都を離れる際に伊子との別れを惜しんでいたことが伝わっていますので、大切にされたのではないでしょうか。

結婚から半年足らずで未亡人となってしまった伊子ですが、父の基房は、彼女を放っておくことはしませんでした。伊子は再び政略結婚をさせられることになります。

相手は源通親、後鳥羽天皇の妻で土御門天皇の母・源在子の義父で、当時朝廷において絶大な権力を握っている人物でした。

源通親は伊子より18歳年上の人物のうえ、すでにほかに正室のいる人物でした。

源通親には正室がすでにいるため、伊子は通親の側室として嫁ぐことになります。

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天皇の正妻にもなれるような家柄の娘が、一公家に側室として嫁ぐとは……なんというか変な感じがしますね。

伊子と通親の結婚がいつごろ成立したのかは分かりません。また、二人の仲がどのようなものだったかもよく分かりません。

ただ、伊子は30代半ばにして通親との間に息子を得ることになります。しかし息子の生まれた2年後に通親は亡くなり、伊子もそれからほどなくして亡くなってしまいました。

伊子の産んだ息子は、弟の師家の跡継ぎ候補でもありましたが……結局、伊子の息子は政治の世界から離れ、僧侶となりました。彼の名前は道元、のちに曹洞宗の開祖として名前が知れ渡ることになる人物です。

妻?:信濃の妻

我去年の春信濃国を出し時、妻子を捨て置き、また再び見ずして長き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。
引用:『源平盛衰記』

木曽義仲(源義仲)が木曽(信濃)にいた時点で娶っていたと思われる妻です。もしかしたら義仲長男・義高の母親かもしれませんね。

この信濃の妻は木曽義仲(源義仲)が都に上る際には同行しなかったようで、『源平盛衰記』によると、木曽義仲(源義仲)は巴御前に「信濃の妻に再び会えないのが心残り」だと語ったそうです。

義仲死後、彼女がどのようになったのかは不明です。

義仲の妹(娘?)である宮菊姫が、頼朝正室北条政子の猶子となって庇護下に置かれていることなどを考えると、おそらく彼女もそれなりに大切されたのでは、と思います。

しかし、宮菊姫の動向は残されているにもかかわらず、義仲の妻の動向は残されていないことを考えると、信濃の妻は義仲死後、後を追うように亡くなった可能性も否定できません。

妻?:中原兼遠の娘

木曽義仲長男・義高の母と伝わる女性。上述の「信濃の妻」や、山吹御前、巴御前のいずれかの女性の可能性もあります。

妻?:藤原家国の娘

義仲四男・沼田義宗らの母親は藤原家国の娘との伝承があります。藤原家国は上野国沼田庄の豪族であり、義仲の子供たちは何人か、家国を頼って沼田におちのびたと伝わっています。

妻?:金刺氏の娘

一説には、木曽義仲(源義仲)との間に娘を1人産んだと伝わります。

妾?便女:山吹

木曽殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹は、いたはりあつて、都に留まりぬ。
引用:『平家物語』

巴と並んで「便女」として紹介されているのが山吹御前です。

便女、には「美女」という意味の他、「便利な女」という意味もあり、おそらく山吹御前は下女のように義仲の世話をする女性召使だったのではないでしょうか。

山吹の出自は不明ですが、巴御前と同様信濃の中原氏の一族だという説もあれば、信濃国の国造の流れをくむ豪族・金刺氏の出身だという説もあります。

伝承によっては、木曽義仲長男・義高の母親は山吹御前だと述べるものもあります。

山吹は木曽から義仲とともに上洛しましたが、病気のため、義仲が都から落ち延びる際には同行しませんでした。

義仲死後、山吹がどのような人生を送ったのかは分かりません。そのまま都で儚くなったのか、それとも信濃へ戻ったのか。想像は尽きませんね。

妾?便女:巴御前

おそらく「木曽義仲(源義仲)の妻」と言われると、一番に想像されるのが巴御前ではないでしょうか。今度の『鎌倉殿の13人』では秋元才加さんが演じることでも話題になっていますね。

巴御前はしかし、実際には「便女」表記なので、妻というよりは妾的な立場であったようです。

巴御前は、木曽義仲(源義仲)を庇護した、信濃中原氏の縁者だと言われています。平家物語では男顔負けの剛力な女性でありながらも、とてつもない美女として描写されています。

木曽義仲に言われるがままに落ち延びた巴御前がその後どうなったのかは分かっていません。一説には尼となって、義仲らの菩提を弔ったとも言われています。

信ぴょう性の低い伝承では、義仲の敵であった源頼朝の部下、和田義盛の手に落ちて妻となり、朝比奈義秀を産んだと言います。

また別の説では、木曽義仲との間に、木曽氏の祖となった朝日三郎・源義基を産んだとも言われています。

木曽義仲の子供たち

木曽義仲には何人か子供がいたと言われています。ただ、その子供たちの母親はいずれも不明です。また、子供だと言われていますが実在しているかわからない人物も何人かいます。

確実に義仲の子供だと言えるのは、長男義高くらいでしょうか。

木曽義仲の子供:源義高

木曽義仲の長男で、源頼朝長女・大姫との悲恋で知られています。

父義仲と、頼朝との間の和議により、人質として義高は頼朝のもとに差し出されました。

その際、頼朝長女大姫の婿に擬せられたと言われています。しかし、和議は破れ、父の義仲は頼朝によって死に追いやられてしまいます。

大姫や頼朝正室・北条政子の手助けを得て落ち延びようとしましたが、最終的に見つかってしまい、義高は処刑されてしまいました。

義高の死に、大姫は非常にショックを受けます。

大姫にはその後、京の公家や天皇との間に何度か縁談が持ち上がりますが、いずれも実現することはありませんでした。大姫は義高死後、心の平穏を取り戻すことなく、20歳で早世しました。

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木曽義仲の子供?:宮菊姫

一般的には木曽義仲(源義仲)の妹、とされていますが、もしも妹だとするならば、父の死亡年から考えて義母となった北条政子よりも年上になってしまうため、実は木曽義仲の妹ではなく、娘では?と言われています。

義仲死後、北条政子の猶子となってその庇護下に置かれることになります。政子によって美濃国に所領を与えられもしました。しかし宮菊姫は美濃国の所領に住むことはなく、上洛して京で生活していたようです。

しかし、周囲の人々が宮菊姫が将軍正室の猶子であるということを利用して乱暴を働くようになったため、頼朝によって鎌倉に呼び出されてしまいます。しかし宮菊姫は自分にかかわりがないことを切々と訴え、頼朝、政子の同情を得ることに成功しました。

その後の宮菊姫の様子は分かりませんが、おそらく女性領主として、穏やかに暮らしていたのではないでしょうか。

木曽義仲の子供?:源義重

木曽義仲の次男だと伝わります。信濃国の豪族・仁科氏の祖になったとも言われていますが、信ぴょう性は低いようです。

木曽義仲の子供?:朝日三郎・源義基

『尊卑分脈』では、上述の義高のことを「義基」としていることもあり、実際に存在していたのか詳細は分かりません。江戸時代初期まで信濃国木曽で権力を持っていた武家・木曽氏の祖先だと言われています。

「朝日三郎」とあるため、木曽義仲三男であると言われています。

木曽義仲の子供?:源義宗

木曽義仲の四男だと伝わります。上野国沼田に落ち延びたと言われており、「沼田義宗」とも言われています。

木曽義仲の子供?:鞠子

義仲には「鞠子」という名前の娘がいたという伝承があります。

木曽義仲の子孫

木曽義仲の子孫だと伝わっている人々は幾人もいるようですが、その中でも代表格である「木曽氏」についてご紹介します。

木曽義仲の子孫?:木曽氏

木曽義仲の三男義基の子孫で、義仲の血をひくと言われています。しかし、もともとは源氏ではなく藤原氏を名乗っていたとも言われており、実際に木曽義仲の血を引いているのかは詳細不明です。

信濃国木曽で権力を握り続け、戦国時代には武田信玄の娘・真理姫を妻に迎えるなど栄えましたが、江戸時代に改易の憂き目にあい、木曽の地を離れることになります。その後は大名家の家臣になるなど、細々と続きました。江戸時代半ばを過ぎて奥医師の葦原検校が木曽氏の子孫を名乗り、木曽氏再興を図っています。

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