紫式部はあまり人付き合いには積極的な方ではなかったようで、宮中生活では左衛門の内侍などに敵視されたりと、なかなか苦労したようです。
そんな紫式部の宮中生活における親友が、後に「上東門院小少将」と呼ばれる女房です。
中宮彰子の従姉妹にあたり、上臈女房として出仕していた彼女と、中臈女房であった紫式部は身分の差を超えて友情を築くのですが……。
ここでは、そんな上東門院小少将について調べてみました。
上東門院小少将は上東門院大納言(源簾子)の妹?父や夫は?
小少将の君の、いとあてにをかしげにて、世を憂しと思ひしみてゐたまへるを見はべるなり。父君よりことはじまりて、人のほどよりは幸ひのこよなくおくれたまへるなんめりかし。
引用:『紫式部日記』
上東門院小少将は、一般的には上東門院大納言(源簾子)の妹だと言われています。
上東門院大納言は参議・源扶義もしくは扶義の兄弟の源時通の娘だと言われていますから、上東門院小少将もまた、源扶義もしくはその兄弟の時通の娘だということになるでしょう。
ただ実際のところ、上東門院小少将が上東門院大納言の妹かどうかは判然としません。
『紫式部日記』において、紫式部は、「式部のおもと」という女房がまた「宮の内侍」と呼ばれる女房の妹だと書き記しています。
しかし、上東門院小少将と上東門院大納言の血縁関係には触れていないのです。
もしも、上東門院大納言は源扶義の娘で、上東門院小少将は源時通の娘、もしくはその逆だとしたら、二人は姉妹ではなく従姉妹だということになります。
『紫式部日記』で、紫式部は、上東門院小少将の父について「父君よりことはじまりて」、つまり「上東門院小少将の父親からこと(=事件?何か不幸な出来事?)が始まった」、という風に述べています。
源扶義はこのころにはすでに亡くなっているため、扶義の死のことを指しているのでしょうか?
それとも永延元年(987)における、源時通の出家遁世のことを指しているのでしょうか?
個人的には、時通の出家のことの方がしっくりくるような気がします。
上東門院小少将は、源扶義の娘ではなく、源時通の娘かもしれませんね。
話は変わりますが、上東門院小少将に夫はいたのでしょうか。
年齢を考えると、おそらく紫式部と同世代か、もしくは少し若いくらいかと思われるので、夫がいてもおかしくはありません。
二人の局を一つに合はせて、かたみに里なるほども住む。ひとたびに参りては、几帳ばかりを隔てにてあり。殿ぞ笑はせたまふ。「かたみに知らぬ人も語らはば」など聞きにくく、されど誰れもさるうとうとしきことなければ、心やすくてなむ。
引用:『紫式部日記』
『紫式部日記』内で、藤原道長が、仲が良く同じ部屋で過ごしていた上東門院小少将と紫式部に対して「お互いが知らない秘密の恋人でも来たらどうするのです?」と訪ねています。
この言葉からすると、上東門院小少将には定まった夫はいなかったようにも思われます。
彼女もまた紫式部のように夫と死別もしくは離別していた可能性もあるでしょう。あるいは女房生活が長く、独身だったのかもしれません。
上東門院小少将と紫式部
小少将の隅の格子をうち叩きたれば、放ちて押し下ろしたまへり。もろともに下り居て眺めゐたり。
引用:『紫式部集』
藤原道長正室・倫子の姪である上東門院小少将は、かなり長いこと中宮彰子に仕えていました。
道長の推挙によって途中から入ってきた紫式部と、上東門院小少将はなぜ仲良くなったのでしょう?
『尊卑分脈』には、源扶義の娘として「女子 上東門院少将 歌人」という記載があります。
もしもこの女性が上東門院小少将であるならば、歌人・藤原為時の娘であり自身も歌才を評価されている紫式部と、同じ歌人同士で仲良くなるのも分かるような気がします。
心ばへなどもわが心とは思ひとるかたもなきやうにものづつみをし、いと世を恥ぢらひ、あまり見苦しきまで児めいたまへり。
引用:『紫式部日記』
『紫式部日記』によると、小少将の君はなかなか奥ゆかしい性格をしていたようです。
どちらかというとあまり押しの強くない紫式部とは、そのような点でも気が合ったのかもしれません。
小少将の君、明け果ててはしたなくなりにたるに参りたまへり。例の同じ所にゐたり。二人の局を一つに合はせて、かたみに里なるほども住む。ひとたびに参りては、几帳ばかりを隔てにてあり。
引用:『紫式部日記』
二人は大層仲が良かったことがうかがわれるエピソードもいくつか残っています。
それぞれ別に部屋が与えられていたにも関わらず、お互いの部屋の間を几帳(パーテーションみたいなものですね)で仕切っただけの状態で過ごすこともあったそうです。
暁に少将の君参りたまへり。もろともに頭けづりなどす。例の、さいふとも日たけなむと、たゆき心どもはたゆたひて、扇のいとなほなほしきを、また人にいひたる、持て来なむと待ちゐたるに、鼓の音を聞きつけて急ぎ参る、さま悪しき。
引用:『紫式部日記』
小少将の君もおはして、なほかかるありさまの憂きことを語らひつつ、
引用:『紫式部日記』
紫式部と上東門院小少将は、お互いの髪をとかしあっているうちに遅刻しそうになったり、女房生活での愚痴を言い合ったりと、お互い楽しく過ごしていました。
しかしそれらの日々は、突如終わりを告げます。
上東門院小少将の死
小少将の君の書きたまへりしうちとけ文の、物の中なるを見つけて、加賀少納言のもとに、
暮れぬ間の 身をば思はで 人の世の 哀れを知るぞ かつは悲しき
引用:『紫式部集』
紫式部の和歌を集めた『紫式部集』には、紫式部が上東門院小少将の死を嘆いて作った和歌が多く載せられています。
上東門院小少将がいつごろ亡くなったのかは分かりませんが、寛弘五年(1008)の、敦成親王(後の後一条天皇)誕生以後のことであることのみ判明しています。
病死だったのか、不慮の事故死だったのか、彼女の死の理由などについては判然としません。
腹ぎたなき人、悪しざまにもてなしいひつくる人あらば、やがてそれに思ひ入りて、身をも失ひつべく、あえかにわりなきところついたまへるぞ、あまり後ろめたげなる。
引用:『紫式部日記』
紫式部はかつて『紫式部日記』において、小少将のことを「悪いことを言われると思い詰めてそのまま儚くなってしまいそうだ」と述べたことがあります。
そばにいたからこそ、上東門院小少将につきまとう死の雰囲気を察知していたのかもしれません。