蘇我蝦夷・入鹿親子に子孫はいるのか?

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

645年、大化の改新に先立つ乙巳の変にて、蘇我本宗家の大臣・蘇我入鹿が暗殺されました。

その後、入鹿の父親である蝦夷も、蘇我家の大量の宝物、また『天皇記』といった歴史書らを道連れに、館に火を放ち自害しました。

さて、これにて蘇我稲目以来、四代続いた蘇我氏の本家の系統は途絶えることとなります。

ただ蘇我氏のうち、2代目の馬子の庶子・倉麻呂の家系の、蘇我倉山田石川麻呂、蘇我赤兄、蘇我連子らの系統は残りました。倉山田石川麻呂の孫娘には、後の女帝・持統天皇までいます。

では、蝦夷、入鹿の子孫はまったくもって残らなかったのでしょうか。気になったので調べてみました。

蘇我入鹿の子供と子孫

冬十一月、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、雙起家於甘檮岡。呼大臣家曰上宮門、入鹿家曰谷宮門。谷、此云波佐麻。呼男女曰王子。

引用:『日本書紀』

入鹿の死後に作られた歴史書からの引用になりますが、『日本書紀』では「入鹿が自分の息子や娘を王子(みこ)と呼ばせた」という記録が残っています。

そういう伝承が残るということは、おそらく入鹿には子供がいた、と日本書紀作成時期には伝わっていたのでしょう。

この当時、子供は母方の家で育てられることが多いですが、入鹿は権力者でしたから、天皇のように自らの邸宅に妻たちを集めていたのかもしれません。

しかし入鹿の子供たちがどのようになったのかは、歴史の中では伝わっていません。少なくとも後の朝廷において、蝦夷や入鹿の子孫を名乗るものは出てきていません。

入鹿の子供たちが生活した、蝦夷・入鹿の邸宅は、おそらく蘇我蝦夷が自らの屋敷に火をつけて自害した時に、同じように燃えたことでしょう。

入鹿の子供たちもまた、燃え盛る炎の中で、祖父と父に殉じたように思われます。よって入鹿の子孫は、現代まで残っている可能性は低いと思われます。

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蘇我蝦夷の入鹿以外の子、子孫

蘇我大臣蝦夷、緣病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。復呼其弟、曰物部大臣。大臣之祖母、物部弓削大連之妹。故因母財、取威於世。

引用:『日本書紀』

さて、蘇我蝦夷の子供についてですが、実は入鹿以外にもいたのでは?と言われています。まず一人目はいるかの弟であるという、「物部大臣」です。

彼については、蝦夷が私的に入鹿を「大臣」に任じた後(本来天皇が任じなければいけないのに、蝦夷が勝手に任命した)に、その弟を蝦夷の母方の一族・物部氏にちなんで「物部大臣」と号した、ということのみ分かっています。

物部大臣らしき人物についてはこれ以後何一つ出てこない事や、男子であったことなどを踏まえると、この物部大臣もまた、兄入鹿、父蝦夷ともども乙巳の変で亡くなっていると考えてよいでしょう。

夫人 手杯娘 大臣蘇我豊浦蝦夷女…(中略)…箭田皇子 母手杯媛

引用:『一代要記』

『日本書紀』などにはでてきませんが、『一大要記』や、『帝王編年記』などに、蝦夷の娘として「手杯娘」という女性が出てきます。

彼女は、天智天皇の父・舒明天皇の夫人として、箭田皇子、もしくは箭田皇女なる子を産んだといいます。子を産んだという伝承はあるのでしょうが、それが男子か、女子かは分からないのですね。

箭田皇子だとしたら、どうなったのかは分かりません。蘇我馬子の娘を母に持つ古人大兄皇子が粛清されたことを考えるならば、蘇我本家の血が濃い皇子が生かされたとは到底思われません。

もしも箭田皇女だったとしたら、少し話は複雑になります。未知の皇族に嫁いで、ひそかに蝦夷の子孫を残していてもおかしくはないでしょう。

ただ一説には、箭田皇女は、同じく蘇我家の血をひく天智天皇の異母兄・古人大兄皇子に嫁いで、天智天皇の皇后である倭姫王の母になったのでは?という説もあります。

古人大兄皇子は、その生まれから考えても、蘇我氏と縁の深い女性を妻にしていたことは間違いないでしょう。

蝦夷の孫娘である箭田皇女を妻にすることは、十分にあり得ます。(当時は異母姉妹との結婚はOKでした。)

十一月甲午卅日、中大兄使阿倍渠曾倍臣・佐伯部子麻呂二人、將兵卅人、攻古人大兄、斬古人大兄與子、其妃妾自經死。

引用:『日本書紀』

もしも箭田皇女が古人大兄皇子の妻だった場合、古人大兄皇子に殉じて自害している可能性が高そうです。

倭姫王は、天智天皇の妻となりましたが、天智天皇との間に子を儲けることはありませんでした。

古人大兄皇子の子が倭姫王以外にいたかは定かではありませんが、父が討たれた王子王女が、無事に生き延びたとも思われません。

蝦夷の子孫が残っている可能性もまた、かなり低いとみてよいでしょう。

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