藤原氏から最初に天皇の妻となった?藤原耳面刀自

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

歴史が好きな人なら、藤原氏と言えば摂関政治をイメージする人も多いのではないでしょうか。

摂関政治において、藤原氏は天皇の妻に自身の娘たちを入れ、次代の天皇となる子供を産ませることで権力を握っていきました。

藤原氏の始祖と言えば、大化の改新の功労者・中臣鎌足ですが、実は彼も、子孫たちと同様、娘たちを天皇に嫁がせていました。

そして、彼がおそらく最初に天皇の妻として後宮に入れたであろう女性が、藤原耳面刀自(ふじわらのみみものとじ)です。

なぜか『日本書紀』などには一切名前の出てこない、あやふやなところもある彼女について調べてみました。

「耳面刀自」という名前の意味とは

現代ではあまりなじみのない「耳面刀自」という名前。どのような意味かは気になりますよね。

まずは「耳面」。「面(モ)」については意味がよく分からなかったのですが、「耳(ミミ)」は、古代において尊称として多用されてきました。

もともと古代日本では「ミ」が「神霊」を表す言葉として用いられていた(海の神=ワタツミ、山の神=ヤマツミなど)ことから、それを重ねた「ミミ」も尊称として用いられたのですね。例えば古代の綏靖天皇の名前は「神渟名川耳(カムヌナカワミミ)」です。

おそらく「耳面」の「耳」は尊称としてつけた名前ではないでしょうか。

そして、「刀自」ですが、こちらは古代女性の名前で多く使われたワードですね。女性に対する尊称として使われており、例えば蘇我馬子の娘で聖徳太子の妻となった女性の名前は「刀自古郎女(とじこのいらつめ)」でした。

これらのことから考えるに、「耳面刀自」という名前は「神秘的で尊い女性」といったニュアンスが含まれているようですね。中臣氏はもともと神職の家系ですから、神様にちなんだ名前を付けたのかもしれません。

耳面刀自と大友皇子(弘文天皇)

覺驚異,具語藤原內大臣。歎曰:「恐聖朝萬歲之後,有巨猾閒釁。」然臣平生曰:「豈有如此事乎?臣聞,天道無親唯善是輔。願大王勤修德,灾異不足憂也。臣有息女,願納後庭,以克箕帚之妾。」遂結姻戚,以親愛之。

引用:『懐風藻』

『日本書紀』などの公的な歴史書では、大友皇子(弘文天皇)の妻として名前があがっているのは、天武天皇と額田王との間に生まれた十市皇女のみです。

そのため、本当に大友皇子に嫁いだ藤原耳面刀自なる女性は存在するのか?と疑問視する意見もあります。

しかし、奈良時代に大友皇子の子孫(淡海三船)によって作られたと言われる漢詩集『懐風藻』によると、大友皇子は藤原鎌足の娘と結婚したと記録されています。

「耳面刀自」と名乗る女性が本当にいたのか?については断言できませんが、ただ「耳面刀自」に該当する事績(大友皇子の妻であった藤原鎌足の娘)を持つ女性は実在した可能性が高いでしょう。

耳面刀自は、一説には大友皇子との間に「壱志姫王」なる娘を儲けたともいいます。

天智天皇の後継者たる大友皇子の娘として生まれた壱志姫王は、本来ならばただの皇族として「姫王(ひめのおおきみ)」と呼ばれるのではなく「皇女(ひめみこ)」と呼ばれてもおかしくない女性です。

しかし、父大友皇子が即位を認められずに非業の死を遂げたことから、女王としてあくまでも扱われたようです。

室町時代に成立した書物『本朝皇胤紹運録』の記録を信じるならば、壱志姫王は従四位に任ぜられたとのことです。

そうだとするならばおそらく成人するまでは確実に生きていたのでしょうが、壱志姫王が誰と結婚したのかしていないのか……といったこまかい事績は何一つ分かりません。

また、耳面刀自自身もどうなったのかは分かりません。女性ですから、おそらく大友皇子ともども殺される……といったことはなかっただろうとは思うのですが。

耳面刀自の姉妹、氷上郎女や五百重郎女は天武天皇に嫁いでいますので、そのあたりを頼った可能性もありますね。

なお千葉県にある内裏塚古墳は、壬申の乱ではるばる落ち延びてきたも現地で亡くなってしまった耳面刀自の墓とも伝わります。

耳面刀自と大津皇子

耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は、久しかつた。おれによつて来い。耳面刀自。

引用:折口信夫『死者の書』

折口信夫の小説『死者の書』の中では、耳面刀自は非業の死を遂げた天武天皇皇子・大津皇子の想い人として出てきます。

作中では、耳面刀自は大津皇子の刑死の場に立ち会った、藤原鎌足のうら若き娘として出てきており、大友皇子の妻であったという描写はありません。(おそらくこの小説中では、大津皇子死亡時にはまだ未婚の娘だったように思われます。)

史実ベースに考えると、大友皇子と大津皇子はだいたい15歳くらい歳の差があるので、おそらく大津皇子よりも耳面刀自はだいぶ年上だったのではと思われます。

20歳そこそこのイケイケな皇子が、当時斜陽にある一族(壬申の乱後、藤原氏は没落気味でした)出身のおそらくかなり年上の未亡人と恋する……というのはあまり考えられないです。

とはいえど、耳面刀自は天武天皇と持統天皇の二人に恨み(夫を殺された)があり、そして大津皇子もまた持統天皇に恨み(天武天皇と持統天皇の姉の息子であるのにも関わらず、天武天皇の後継者から外された)があります。

もしかしたら共通の人物に恨みを持つ者同士結びつく―なんてことがあったかもしれないですね。

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