花山天皇(花山法皇・師貞親王)の愛人たち

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

花山天皇は出家前、4人の女性を妻(女御)として迎えていました。

しかし出家したことで、この妻たちとは別れることとなります。

とはいえどまだまだ若い花山法皇、僧侶になったとはいえ、女性への関心は捨てきれるものではなく……。

結局花山法皇は、出家した後もなお、多くの女性たちを愛したのです。

この記事では、花山法皇が出家後に愛した女性たちについてまとめてみました。

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花山法皇の愛人①:九の御方(藤原伊尹九女)

出家した後、花山法皇は比叡山に上ったり、各地の寺院を巡礼(彼が廻った巡礼地が現在の『西国三十三か所』です)するなど、積極的に仏事にいそしんでいましたが……いつのころからか、彼の中の好き心はうずき始めるようになりました。

出家後に花山法皇が最初に愛したであろう女性が、自らの叔母(母・藤原懐子の妹【同母妹とも、異母妹説もあり】)である藤原伊尹の娘・九の御方でした。

「九の御方」という呼称は、彼女が伊尹の九女であったことによるものですね。

最愛の妻を亡くし、さらには自身の側近でもあった藤原道兼らにはめられ出家することになるなど、いろいろと疲れていたであろう花山法皇からすると、亡き母ゆかりの女性……ということで安心するものもあったのかもしれません。

九の御方もまた、このころには両親を失っており、後ろ盾がないことから年の近い甥を頼みにしていたのかもしれません。

一条の摂政の大上は、九の御方ともに東の院に住ませ給ひて、

引用:『栄花物語』

九の御方は父・伊尹から東の院(のちに「花山院」と呼ばれ、『花山法皇』の名前の由来にもなりました)という屋敷を引き継いでおり、花山法皇は彼女の住まいへと通っていたようですね。

この二人が恋愛関係にあった時期については諸説あるようですが、どうも正暦三年(992)以降のことでは?といわれています。

ところが、いつの間にか花山法皇の心は別の女に向くことになります。

かヽる程に花山院、東の院の九の御方にあからさまにおはしましける程に、やがて院の御乳母の女中務といひて、明け暮れご覧ぜし中に、何ともおぼし御覧ぜざりける、いかなる御様にかありけん、これを召して御足など打たせさせ給ける程に、むつまじうならせ給て、おぼし移りて、寺へも帰らせ給はで、つくづくと日頃を過ぐさせ給。
九の御方、我が見奉らせ給をばさるものにて、世に自から漏り聞ゆる事を、わりなうかたはらいたくおぼされけり。

引用:『栄花物語』

相手は花山法皇の乳母の娘の中務、乳兄弟の気安さで気軽に召し使っている中で、花山法皇はひそかにいとおしく思うようになってしまったのです。

こうなっては面白くない九の御方ですが、表立っては文句は言わないようにしていたようですね。

とはいえど、花山法皇からすると居心地も悪くなりつつあったのでしょうか。ここでとんでもない一手を打ちました。

花山法皇は自らの異母弟(冷泉天皇と藤原兼家の娘・超子の間に生まれた皇子)である為尊親王と、九の御方の縁談を持ち上げたのです。

為尊親王は九の御方よりは年下(一説には6歳年下)だったようですが、二人は結婚してともに東の院に住んだようです。

二人の間には子供は生まれず、為尊親王は九の御方の親戚(九の御方の大甥にあたる藤原行成の息子)などを養育するなどしたこともあったようです。

なれそめはちょっとアレでしたが、それなりに仲良く暮らしていた二人ですが―為尊親王は異母兄・花山法皇に負けず劣らずの色好みだったことでも有名でした。

九の御方もやきもきすることは多かったかもしれません、あるいは年上の余裕で何とか交わしていたのか……?

為尊親王は様々な女と情交を結び―その中の一人には、いわゆる「色好み」で有名で「浮かれ女」とまで呼ばれた恋愛歌人・和泉式部がいたことは、よく知られていることです。

そして和泉式部ら様々な女と遊ぶことに夢中になっていた為尊親王は、病魔が流行っているにもかかわらず女遊びにいそしみ―流行り病でその若い命を落とすこととなります。

戌刻北方請法橋覚運為戒師、為尼、年卅二、

引用:『権記』

長保四年(1002)、為尊親王の四十九日ののち、九の御方は尼になります。

32歳という若さで、彼女は俗世と別れを告げました。

その後は仏事にいそしんで余生を過ごしたようです。

九の君は冷泉院の弾正宮と申しし御うへにておはせしを、その宮うせ給て後、あまにていみしうおこなひつとめておはすめり、

引用:『大鏡』

その生活がどのようなものだったのかはわかりませんが、もしかしたらかつての恋人・花山法皇とただの僧と尼として、仏教談話などをしていたかもしれませんね。

花山法皇の愛人②:中務(平祐之の娘)

花山法皇の女御たち、そして愛人であった九の御方に比べると身分が低いですが、その身分の低さゆえにそば近くに仕え、寵愛を受けるようになったのが花山法皇の乳母の娘であった「中務」でした。

やがて院の御乳母の女中務といひて、明け暮れご覧ぜし中に、何ともおぼし御覧ぜざりける、いかなる御様にかありけん、これを召して御足など打たせさせ給ける程に、むつまじうならせ給て、おぼし移りて、寺へも帰らせ給はで、つくづくと日頃を過ぐさせ給。

引用:『栄花物語』

彼女は平祐之と花山天皇の乳母の間の娘として生まれ、成長したのちに若狭守・平祐忠と結婚し、娘・平子を儲けていました。

年齢はわかりませんが、すでに娘の平子が大人になったいたことを考えるならば、花山法皇と同年代~あるいは年上である可能性も高いでしょう。

すでに人妻となった昔なじみの女に、気軽に足などをマッサージさせているうちに、花山法皇はふと夢中になってしまい、当時の恋人であった九の御方を袖にするようになってしまいました。

そしてそれまでなかなか子に恵まれなかった花山法皇は、彼女との間に一男二女に恵まれます。

二人の娘は早くに亡くなった(花山法皇が崩御した寛弘五年【1008】までには亡くなっている?)ようですが、息子・清仁親王は祖父・冷泉上皇の養子となって親王宣下を受け、のちに四品弾正宮となりました。

清仁親王の子孫はのちに「白河伯王家」として、代々神祇伯を世襲、さらに特別に「王」を名乗るなど、皇族に準じた扱いを受ける一族として中世、近世へと続いていくこととなります。

花山法皇の愛人③:平平子(平祐忠と中務の間に生まれた娘)

かヽる程に中務が女、若狭守祐忠と言ひけるが生ませたりけるも召し出でて使わせ給ほどに、親子ながらたヾならずなりて、けしからぬ事どもありけり。

引用:『栄花物語』

さて、中務を寵愛していた花山法皇は、中務のそばにいたある女性にも心惹かれるようになります。彼女の名前は平子―中務が前の結婚で儲けていた娘でした。

彼女は母と同じように花山法皇のそば近くに仕え、「御匣殿別当」という立場の高い女官の座にあったようです。

そして花山法皇は中務とほぼ同時期に平子を妊娠させ、平子との間にも一男二女を設けます。

生まれた男児・昭登親王は異母兄(同時に母・平子の異父弟ですから叔父でもありますね)の清仁親王と同時に、冷泉天皇の養子となって四品中務宮を名乗ります。

ちなみに昭登親王には子供がいましたが、その子供は出家してしまったため、昭登親王の子孫は続かなかったようです。

平子の生んだ娘の一人は中務所生の娘同様に早世しましたが、残った一人は大人になるまで成長しました。

世が世なら内親王としてもてはやされたであろう平子の娘は、しかし父の死、そして母の身分の低さ(若狭守の娘、つまり受領階級の出身)であることから、内親王宣下を受けることはできませんでした。

それどころか、成長したのちは女官として藤原道長長女で一条天皇中宮、上東門院彰子に仕えていたようなありさまだったようです。

万寿元年十二月八日、華山院女王、為盗人、被殺事、

引用:『小右記』

さらに不幸は続き、彼女は強盗が入った際にその女房装束を狙われてさらわれてしまいます。

最終的に装束をひん剥かれた上で路上に放置され、さらに誤って水路に落ち、ぬれねずみになってしまいます。

おりしも十二月、彼女は凍えた末にむごたらしく凍死、さらにはその死骸を野犬に食われるという壮絶な最期を遂げたそうです。

ちなみにこの死の陰には藤原道雅(藤原伊周の嫡子で、道長全盛期ということもあり出世コースから外れており、荒れくれ者としても有名であった)との恋愛沙汰もあったなどともいわれていますが……真相はわかりません。

もしもこの時点で平子が存命であったならば、娘を襲った悲劇を嘆いたに違いないでしょう。

花山法皇の愛人④:藤原儼子(藤原為光四女)

さて、中務・平子親子と懇ろになっていた花山法皇ですが、なおも女性に対する関心は衰えておらず、新たな女性を恋人にします。

その女性は、太政大臣・藤原為光とその継室・藤原伊尹の娘との間に生まれた四女で、花山法皇の寵愛した忯子の異母妹にあたる藤原儼子でした。

四・五の御方がたもおはすれども、この女御と寝殿の御方とをのみぞ、いみじきものに思ひきこえ給ける。「女子は容貌を思ふなり」と宣はせけるは、四・五の御方いかにぞ推し量られける。

引用:『栄花物語』

異母妹ということもあってか、残念ながら?亡き忯子ほどの美女というわけではなかったようです。

それでも花山法皇からすると懐かしさを感じることもあったのではないでしょうか。

ちなみに九の御方(藤原伊尹九女)からすれば姪に当たり、また花山法皇からしても母方の従妹(花山法皇の母・懐子の姪)にあたりますね。

忯子のゆかり、そして母懐子のゆかりの人という二重の縁で、二人は結ばれたのかもしれません。

長保二年(996)頃から、花山法皇は人目を忍んで彼女のもとに通い詰めるようになったようです。

この時、儼子の姉・寝殿の上(為光三女)の恋人であった藤原伊周(藤原道隆の嫡子、道長の甥)は、法皇は儼子ではなく寝殿の上のもとに通っているライバルだ!と誤解してしまい、法皇に襲い掛かるというとんでもない出来事が起こります。

花山法皇はなんとか無事でしたが、法皇の従者が殺され、これがもとで伊周は失脚することとなります。

世を騒がせた儼子と法皇の恋ですが、その後も穏やかに続いたようで、花山法皇存命中は、彼女は法皇の庇護を受けていたようです。

しかし寛弘五年(1008)、花山法皇は亡くなってしまいます。

花山法皇の死後、夫を持たない彼女は生活に困ったのでしょうか、三条天皇の中宮・藤原妍子(道長の次女)に仕えるようになりました。

太政大臣の娘という毛並みの良さもあってのことでしょうか、長和四年(1015)には、同じく妍子に仕えていた妹・穠子と同時に正五位に叙位されるなど、かなり厚遇されたようです。

そしてそのうちに主人の父親である道長と懇ろになり、とうとう道長との間に子を身ごもります。

花山法皇との間には子供が生まれていませんから、儼子はかなり喜んだかもしれません。

しかし長和五年(1016)、儼子は出産するも難産に苦しみ、生んだ我が子ともども亡くなってしまいました。

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花山法皇の愛人⑤?:覚源の母

花山法皇には、母親のわかっていない子供が二人います。

この二人の子供はいずれも男児で、兄弟である清仁親王・昭登親王とはことなり親王宣下を受けることなく、仏門に入りました。

この二人のこのうち、兄にあたる覚源は、平子所生の昭登親王と同年の長徳四年(998)に生まれていると伝わります。

そうすると、平子所生である可能性は低いですね。中務の所生である可能性はありますが、あるいは平子・中務でもない別の女性が母親である可能性は否定できないでしょう。

花山法皇の愛人⑥?:深観の母

花山法皇の母親のわかっていない子のうち、弟にあたる深観は、長徳三年(1001)、あるいは長徳五年(1003)頃の生まれと伝わります。

こちらも、中務あるいは平子の所生の可能性がありますが、彼女たちではない別の女性が母親である可能性も否定できないでしょう。

花山天皇の愛人?:女官

花山天皇は即位する前に、天皇だけが使うことが許される玉座(高御座)に女官を引き入れて逢引きに及んだことがあるそうです。

花山天皇が正式に迎えた妻といえば四人の女御たちですが、在位中にもお手つきした女官は数多くいたのではないでしょうか。

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