大姫、というとおそらく多くの人は源頼朝の長女を想像するのではないでしょうか。
『鎌倉殿の13人』では、これから南沙良さんが演じることでも話題を集めていますよね。
婚約者であった源義高(木曽義高)の死で大ダメージを受けた大姫ですが、彼女は実は20歳で亡くなっています。
大姫の死因については諸説あるようで……。
この記事では、大姫の死因についていろいろ考察してみました。
大姫の死因①:病死
大姫公、日來御病悩、寝食背例、身心非常偏邪氣之所致歟護念上人、依仰被奉加持之仍今日令復本給縡之嚴重、法之効驗、
引用:『吾妻鏡』
鎌倉幕府の公的な歴史書と言えば、『吾妻鏡』になるでしょう。
『吾妻鏡』は、鎌倉幕府成立からしばらくたってできた歴史書であり、北条氏のプロパガンダも大いに含まれているため、正当性に疑問は残ります。
しかし、それでも大姫の死因を探る重要な手掛かりとなりえそうです。
ただ大姫は建久八年に亡くなっているのですが、なぜか『吾妻鏡』ではこの時期の記録が欠落しているのです。
そのため、『吾妻鏡』からは大姫の死因について探ることは難しそうです。
ただ、『吾妻鏡』において、大姫はたびたび病気になっていたことが描写されています。
そこから、大姫は若くして病気で亡くなったのでは?とする説があります。
また京の人々の認識も「大姫は病死した」というものだったようです。
巷説云、故前大将第二娘、又如姉長病逝去云々、
引用:『明月記』
コノ年ノ七月十四日ニ京ヘ参ラスベシト聞エシ。頼朝ガムスメ久クワヅライテウセニケリ。
引用:『愚管抄』
牧の方の孫娘を息子の嫁にした公家・藤原定家や、九条兼実の弟であった慈円なども、そのように記録しています。
大姫は長い間病で寝込んでおり、そのまま亡くなったというのが定説と言って良いでしょう。
大姫の妹、三幡こと乙姫もまた病死しています。
今とは違い、医療の発達していない時代のことですから、長患いの果てに若くして亡くなった、という話は珍しくなかったでしょう。
大姫の死因②:暗殺
大姫の死因については病死と見せかけた「暗殺」(毒殺)では?とする説もあります。
大姫には、後鳥羽天皇との縁談が持ち上がっていました。
しかし、すでに当時、後鳥羽天皇には、公家・土御門通親を外戚とする皇子が生まれており、順当にいけば、この皇子の即位は確実でした。
ここでもしも、鎌倉殿たる頼朝の娘が嫁いで、さらに男子を産んだら?
間違いなく、第一皇子の即位の障害となるでしょう。
土御門通親ら、大姫の入内を快く思わない人たちが、毒などを使用して、大姫暗殺を図ったというのは全くあり得ない話ではないでしょう。
もしも毒殺だったとしたら、『吾妻鏡』などの歴史書には到底残せない記録となります。
『吾妻鏡』内に、大姫の死にまつわる記録が残されていないのもまた、やむなしです。
大姫の妹でやはり入内話が持ち上がっていた三幡(乙姫)もまた、急な病で亡くなっています。
乙姫の急死も実は毒殺ではないか?として、大姫の暗殺説と結びつける人もいます。
大姫の死因③:自殺
敢無承諾及如然之儀者、可沈身於深淵之由、被申〈云云〉是猶御懐舊之故歟
引用:『吾妻鏡』
大姫の死因は自殺ではないか?とする説もあります。
大姫は死のおよそ3年前に、親戚(従兄弟)にあたる公家・一条高能との縁談が持ち上がりました。
しかし、その際に「川に身を沈めて死にます!」と激しく抵抗した話が『吾妻鏡』内に記されています。
そんな大姫が、父の進める入内話を本当に黙って受け入れたのでしょうか……?
たとえ入内話が頓挫したとしても、鎌倉殿の長女たる大姫の縁談がまったくなくなるとは思えません。
そんな絶望の中、死を選ぶ……というのは十分にあり得る話です。
自殺、ということを隠すために、周囲には「病死」としたということも考えられます。
大姫の死因は結局のところ確実には分からない
大姫が亡くなったのは今から800年以上前のことであり、その時代のことは限られた史料から推し量るしかありません。
しかも史料は、確実なことを伝えるとも限らないのです。
大姫の死因が果たして本当に病死なのか?気になるところですが、真相は今や藪の中ということになるでしょう。