後鳥羽院の煽りを受けた女 陰明門院大炊御門(藤原)麗子

女院

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

後鳥羽院はよく言えばカリスマ、悪く言えばなかなか我の強い性格をしていたようです。

自身の子供に対しても好き嫌いがはっきりしていたようで、修明門院の子・順徳天皇への偏愛は特に有名でしょう。

そして順徳天皇への偏愛もあり、その煽りをもろに食らったのが後鳥羽院の長男にあたる土御門天皇でした。

そして同様に、土御門天皇の正妻となったある女性もまた、後鳥羽院の煽りをもろに受けた人生だったと言えるでしょう。

陰明門院大炊御門麗子の父は大炊御門頼実、母は藤原隆子、義母は卿二位

陰明門院藤麗子 土御門后 大相国頼実女 母左京大夫定隆卿女 元久二三一叙従三位 廿一 同四十三 為女御 七月十一 為中宮 承元四三十九 院号 廿七 承久二正廿四 為尼 年卅六 清浄妙 寛元元九十八 御事 五十九

引用:『女院小伝』

陰明門院こと大炊御門の父・大炊御門頼実は、太政大臣の座に就くなど、公家としてはかなり高位の人物でした。

ただ摂関家の主流からは少し離れた家柄だったため、摂政関白の座につくことはありませんでした。

母の隆子は、後白河院の院別当を務めた左京大夫藤原定隆の娘でした。

麗子は、この両親の間のただ一人の娘として生まれています。麗子には幾人かの異母兄弟もいましたが、彼らはいずれも父の跡を継ぐことはありませんでした。

母の隆子は麗子が入内する前までに亡くなっているか、父頼実と離別しているようです。

父の後妻は、卿二位こと後鳥羽天皇の乳母、藤原兼子でした。

父頼実は妻の縁で、自身の権力を高めることに非常に関心があったようです。

そして、その権力掌握の過程として、一人娘の麗子を天皇の妻にしたいと考えたいと思うようになったのです。

当時すでに後鳥羽天皇には幾人も子がいたため、後鳥羽天皇の妻となることにあまりメリットはありません。狙うのは、当時幼児であった土御門天皇の妻の座でした。

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陰明門院は本来ならば入内する予定はなかった?

摂政ハ主上〔土御門〕御元服ニアイテ。テテノ〔兼実〕殿ノ例モチカシ。又昔ノ例共モワザトシタランヤウナレバ。ムスメヲヲクモチテ。ヨシヤスガムコニナリテ。イツシカマウケラレタリシ嫡女ヲ。又ナラブ人モナク入内セントテ。院ニモ申ツツイトナマセケル程ニ。卿二位フカク申ムネアリケリ。

大相國〔頼実〕モトノ妻ノ腹ニヲノコゴハエナクテ。女御代トテムスメヲモチタリケルヲ。入内ノ心ザシフカク。又太政大臣ニヲシナサレテ。左大臣ニカヘリナリテ一ノ上シテ。如父経宗ナラバヤト思ヒケリ。サテ卿二位ガ夫ニモヨロコビテ成ニケル程ニ。左大臣ノ事申ケルハ。大臣ノ下登ムゲニメヅラシクアルベキ事ナラズトヲボシメシテ。エ申エザリケレバ。コノ入内ノ事ヲ殿ノムスメ参テ後ハカナフマジ。是マイリテ後ハ殿ノムスメ参ラン事ハ。例モ道理モハバカルマジケレバ。一日コノ本意トゲバヤト。卿二位シテ殿下ニ申ウケケリ。

殿ハ院ニ申アハセラレケルヲ。院ハコノ主上ノ御事ヲバトクヲロシテ。東宮〔為仁〕ニタテテヲハシマス脩明門院〔重子〕ノ太子ヲ位ニツケマイラセタラン時。殿ノムスメハマイラセヨカシト思召ケリ。人コレヲシラズ。申アハセラレケル時。イササカコノ趣キナドノアリケルヤラントゾ人ハ推知シケル。サテアリテ頼実ノムスメ〔麗子〕ヲ入内立后ナド思ノゴトクニシテケリ。

引用:『愚管抄』

しかし、自分の娘を土御門天皇の妻に……。と考えていたのは頼実だけではありませんでした。

当時の摂政・九条良経(宜秋門院の弟、九条兼実の息子)も、自身の娘・立子を入内させようとしていたのです。

そこで暗躍したのが卿二位、そして後鳥羽上皇でした。

卿二位としては継娘を天皇の妻にすれば、さらなる権力を強めることに繋がります。

また、後鳥羽上皇は長男である土御門天皇を天皇にしてはいましたが、その実、土御門天皇よりも、当時東宮だった順徳天皇に皇位を継がせたいと考えていました。

そこで、後鳥羽上皇は、卿二位の推薦した大炊御門麗子を土御門天皇の后にして、幕府ともつながりの深い摂関家の娘・九条立子を東宮の后に立てることにしたのです。

女御代から中宮へ

幼い土御門天皇が即位する際の大嘗会で、大炊御門麗子は「女御代」つまり女御の代わりの女官として、彼女は御禊の儀に奉仕しました。

過去においても、後朱雀天皇の女御代から中宮に上がった嫄子女王(藤原嫄子)、後三条天皇の女御代から女御へとなった藤原昭子など、女御代が天皇の后妃になることは多々ありました。

この時麗子は14歳、まだ幼児である帝にいずれは嫁ぐのだ、とこの時は知っていたのでしょうか。

その7年後、元久二年(1205)に、土御門天皇のもとに入内、女御、そして中宮へととんとん拍子に出世します。

これで子供が生まれれば良かったのでしょうが……土御門天皇とは10歳も年が離れていた、ということもあったためでしょうか。彼女は子を産むことはありませんでした。

土御門天皇は、義理の従姉妹(母承明門院の義父・土御門通親の孫娘)にあたる典侍・源通子や高階氏出身の美作内侍といった女官たちを寵愛するようになります。

夫・土御門天皇の退位

京都飛脚參著去四日、坊門院、〈院御姉〉、於一條室町故皇大后宮御所崩仍南山御幸、延引之由申之又三月十九日入夜、有院號改中宮職、爲陽明門院〈云云〉

引用:『吾妻鏡』

承元四年(1210)、土御門天皇は後鳥羽上皇の要請により退位を迫られ、東宮・順徳天皇に譲位します。そのことで、麗子も中宮位から退き、陰明門院の女院名を賜ります。

そしてかつてのライバル?だった九条立子は、順徳天皇の中宮に冊立されます。立子と順徳天皇との間には、諦子内親王、そして懐成親王が生まれます。

麗子はこの時どのように考えていたのでしょうか。貧乏くじを引いてしまった!とでも思っていたのか。それとも後鳥羽上皇の夫・土御門天皇に対しての仕打ち、そして自身に対する仕打ちを恨んでいたのか。

承久二年、もしくは三年、中年に差し掛かった麗子は出家を遂げ、尼となります。

まだ夫の土御門天皇は俗体でしたから、この出家はもしかしたら結婚生活からの卒業のような意味合いもあったのかもしれません。

あるいはこの少し前に出家していた父・頼実のすすめだったのかもしれません。

承久の乱後

寛元元、九、十八、辛酉、今日陰明門院崩御云々、御年五十七、故入道太政大臣頼実公女、母儀、土御門院妻后、御在位之時、辞椒房移芝砌給、去嘉禎比被辞封戸・年官・年爵□、近年御隠遁之躰歟、去春明義門院 年来御猶子 俄崩御之後、令悲歎此御事給之間、綺膳乖和、

引用:『民経記』

承久の乱で、麗子を取り巻いていたものたちは大きく変わることとなります。

麗子の父・頼実はすでに出家しており、さらに倒幕計画に反対していたということもあり、咎めを受けることはありませんでした。

しかし舅の後鳥羽上皇、義弟の順徳上皇、そして九条立子の子・懐成親王(仲恭天皇、九条廃帝)は咎めを受けることとなります。

即位したばかりの仲恭天皇は廃位となりますが、その身柄は母方の九条家に預けられることとなり、穏やかに暮らすことが許されました。

しかし、倒幕計画の首謀者である後鳥羽上皇、順徳上皇は流罪が決まります。そして―この動きに一切かかわりのなかった夫・土御門上皇は、父に殉じて自身も流罪になることを選びます。

後鳥羽上皇・順徳上皇は隠岐、佐渡と険しい離島への流罪となりましたが、土御門上皇は都からもほど近い土佐、阿波への流罪と決まります。

女院・陰明門院という高位にあった麗子は、土御門上皇についていくことはかないませんでした。土御門上皇はそのまま10年余りを土佐、阿波で過ごし、同地で亡くなります。

土御門上皇の死を聞いた麗子は、女院として受けていた給付の類をすべて返上、隠遁生活に入ります。

しかし隠遁生活と言っても、孤独かつ質素に過ごした、というわけではありませんでした。

実家である大炊御門第で悠々と生活し、また順徳天皇と九条立子の娘・諦子内親王(明義門院)を猶子に迎えるといったことなどをしていたようです。

陰明門院・大炊御門麗子は、寛元元年(1243)に亡くなります。同年の三月に亡くなった猶子・諦子内親王の死の悲しみから、復活することはなかったようです。

陰明門院異聞~ 白子皇子の母?~

現在の滋賀県長浜市(旧・余呉町)には、「白子皇子」にまつわる伝説が残っています。

鎌倉時代、白子、いわゆるアルビノの皇子が体が弱かったため京では到底暮らすことが出来ず、余呉町の小原の地に落ち延びてきたという伝説があるのです。

この白子皇子についてですが、小原の地に残る伝承によると、土御門天皇と陰明門院の間に生まれた皇子だというのです。

アルビノの皇子、というと古代になりますが清寧天皇などがいますから、皇室でアルビノが生まれるということも長い歴史の中ではあるでしょうが……。

陰明門院が子供を産んだという記録は一つも残っていませんし、この伝承も後嵯峨天皇(土御門天皇の息子)の皇子だとする説もあるそうです。

ですから歴史的な信ぴょう性はあまり高い話ではないと言えるでしょう。

もしかしたら、承久の乱後に都落ちした皇族などが小原におり、その人たちの伝承が伝わったのかもしれません。

あるいはまた、承久の乱後、陰明門院は自らの年爵などをすべて返上して隠遁生活を送ったと伝わっています。

その隠遁生活を小原の地にほど近い菅山寺で送ったという話もあるのだとか。

陰明門院なる京の貴人の噂を聞いた小原の地の住民の中で、いつしか生まれた伝承なのかもしれません。

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