独眼竜に愛された女~伊達政宗正室・愛姫~

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

今日でもなお愛されている武将の一人が、独眼竜こと伊達政宗でしょう。彼の正室は、愛姫(めごひめ)という女性でした。結婚した当初はなかなか歩み寄れなかった夫婦ですが、その後はお互い愛し、信頼し合っていた様子も残る夫婦。

ここでは、伊達政宗正室愛姫のことについて紹介していこうと思います。

愛姫は坂上田村麻呂の子孫

愛姫は、永禄十一年(1568)に、三春城主田村清顕の娘として生まれました。愛姫の母は正室・相馬顕胤の娘於北です。愛姫はこの両親ただ一人の子供として生まれました。

ちなみに父方の祖母は伊達氏の娘(伊達稙宗の娘)であり、愛姫は夫となる伊達政宗の又従姉妹でもあります。

田村氏は一説には平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂以来代々田村郡を領してきた家柄だとも伝わります。ただ実際には平氏を名乗っていたようですが……(坂上一族は平安以降没落し、坂上から平姓を名乗るようになっていたので、その影響との説もあります。)

さて、三春城主田村氏は当時、田村郡を中心に、約9万石ほどとちょっとした大名級の領地を支配していました。しかし、田村郡の周りは、佐竹氏や蘆名氏、相馬氏、伊達氏、岩城氏、などに囲まれています。

そんななか田村氏は、周辺勢力と協調したり、圧力をかけたりしつつかなり絶妙なバランスで独立状態を保っていました。

しかし、当主清顕には愛姫以外に男子がいない事もあり、このままいけば後継者をめぐってお家騒動必至でした。

そこで清顕は、愛姫を伊達家に嫁がせ、生まれた次男を伊達家の後継の元田村家の当主に建てることを画策したのです。

愛姫は美人だったのか?

さて、愛姫の名前は「めごひめ」と読みますが、これは父の田村清顕が、「こんなにめんこい(東北の方言で「可愛い」)子はいない!」と親ばかを炸裂させたような発言をしていたことから、つけられた名前だと言います。

田村清顕には愛姫1人しか子供がいませんでしたから、親ばかになるのも当然と言えば当然ですね。ですから客観的に見て愛姫の容姿がどうだったのか?はよく分かってはいないのですが……。

伝承では、彼女は父清顕が自慢するのも当たり前なほどの美人だったとも言われています。

また、政宗との結婚生活の後半生で、愛姫は京や江戸での人質生活兼女性外交官的な役割をしっかりと勤め上げています。

美人の条件に知性も含まれるのならば、仙台藩伊達家の女性外交官として活動した彼女は十二分に美女と言えるでしょう。

愛姫の波乱に満ちた結婚生活~乳母・侍女を殺されて~

愛姫は天正七年(1579)に、米沢城の伊達輝宗の嫡子・伊達政宗に嫁ぎ、その正室となりました。この時愛姫は11歳(数え年で12歳)、夫となる政宗も13歳とかなり若い夫婦でした。

しかし夫婦生活は波乱の幕開けでした。愛姫が三春城から連れてきた乳母や侍女たちは、内通の恐れありとして、政宗によって全員殺されてしまいます。

政宗からすれば、妻が連れてきた侍女であったとしても、自分に不利益をもたらしかねない存在は生かすことができなかったのでしょう。

しかし、気を許していた人たちをいきなり殺された愛姫は大きなショックを受けます。当然のように、政宗との関係が悪化しました。関係が悪化しているため、当然のことながら望まれていた子供はなかなか生まれてきません。

さらに愛姫に追い打ちをかけるように、天正十四年(1586)に、父清顕が亡くなってしまいます。愛姫が生んだ次男を田村家の跡継ぎに……という話でしたが、愛姫に子供はいません。

とりあえず相馬氏出身の愛姫の母が田村家を取りまとめようとしますが、田村家中は相馬氏に与する派閥と、伊達氏に与する派閥に別れてしまい、混とんとします。

最終的に政宗が乗り出し、三春城に入城し、愛姫の従兄弟・田村宗顕(祖母が愛姫同様伊達稙宗の娘)を田村氏の後継に立てました。

……そのさなかに、愛姫の母は三春城を追い出され、隠居に追い込まれることとなります。

実母が夫と対立しかけた―愛姫のショックはいかばかりだったでしょう。さらに子供が生まれないこともあって、政宗は側室をとりました。その側室との間に、愛姫には生まれなかった男子が生まれることになります。

愛姫の秀吉・家康のもとでの人質生活と待望の子供

さて、波乱の大きかった夫婦関係ですが、それでも愛姫は政宗に添い続けました。政宗は東北地方の各所で戦に励みますが、豊臣秀吉に目をつけられてしまいます。

小田原に死に装束で参陣するというパフォーマンスでなんとか秀吉の不興を免れましたが、妻・愛姫は人質として京の聚楽第に人質として移り住むこととなります。

離れたことが功を奏したのか、夫婦関係はようやく落ち着いたものになります。そして愛姫は、待望の第一子を身籠ります。

文禄三年(1594)に生まれた最初の子供は娘でしたが、政宗はすでに庶子秀宗がいたにもかかわらず男子を待望し、男子につける名前しか用意していなかったために「五郎八(いろは)」と名づけられました。

その後愛姫は聚楽第の打ちこわしを機に、大坂に移り住みます。慶長四年(1599)に、彼女は待望の第二子男子・虎菊丸ことのちの伊達忠宗を産みました。

その後、政権が徳川に移った後は、江戸の伊達屋敷に居住しました。江戸でも政宗との間に2人の男子を産みましたが、早世してしまい、実家の田村家を継ぐ男子は、長男忠宗の子の代まで待つことになります。

愛姫は、江戸の伊達屋敷では、政宗とは別棟の建物で居住していました。さらに五郎八姫が夫と離縁となったあとは、夫婦生活も断っていたようです。

政宗が江戸にいるときは、毎月1日、15日、28日と各節句の日という決まった日に、正装で愛姫の元を訪ねて、食事などを共にしていたようですが、名代を立てて会話するなどかなり儀礼的なものだったようです。

それでも二人の絆はあったのでしょう。政宗は愛姫に先立って亡くなりますが、愛姫は政宗の死に目に会いたいと懇願します。

しかし政宗は許しませんでした。政宗は、「このような老いさらばえた姿を、愛するあなたに見られたくない……」と、家臣に語ったそうです。

最期まで格好良く見てほしい、という伊達男なりの矜持がうかがえるような話ですね。そして、愛姫の前では格好つけていたかった政宗の男心も感じます。

伊達政宗と愛姫の手紙

さて、伊達政宗と愛姫は、天正十八年(1590)以降は、基本的には離れて住むことが多かったようです。愛姫は人質として京、大坂、江戸に住んでいましたが、政宗は領地に戻ることも多かったですからね。

そんな二人をつないでいたのが手紙でした。政宗は妻に対して「めごへ まさ」とひらがなで書いたどこか可愛らしい手紙を送っていたようです。

後半生では、お互いの侍女を通しての手紙のやり取りも多かったようですが、直筆での手紙のやり取りもあったみたいですね。

愛姫は政宗に、「こちらのことは気にしないでくださいませ。いざとなれば(自決もできるように)懐剣ももっております」と、大名の妻としての自負がうかがえる手紙を送っています。

一方政宗は、息子忠宗に対し、愛姫の健康状態を気遣うような手紙を出していたこともあったそうです。

愛姫はキリシタンだった~細川ガラシャとのかかわりも?~

愛姫は実は一時期キリシタンだったことでも知られています。一説には、細川忠興正室・明智光秀娘の細川ガラシャの影響を受けて、キリシタンの教えに興味を持ったのだとか。

細川ガラシャは永禄六年(1563)生まれで、愛姫より5歳ほど年上。孤独な人質生活のなかで、同年代の友人を得たこともあって、愛姫は強く影響を受けたのかもしれませんね。

愛姫自身はガラシャのように正式な入信はしなかったようですし、また、後々キリシタン禁制などの動きもあったため公にはしていないようですが、愛姫がキリシタンだったことは、娘の五郎八姫に影響を与えたとも言われています。

五郎八姫は徳川家康の六男・松平忠輝と結婚していましたが、忠輝が改易・流罪になった後、実家の伊達家に戻りました。五郎八姫はその時20代前半、大半伊達家の嫡出女子であることを考えれば、再婚の話も多く寄せられたことでしょう。

しかし、五郎八姫はすべて断り、仙台で暮らすことを選びます。彼女のこの選択の背景に、五郎八姫が離婚を認めないという協議を持つキリシタンであったために、再婚を拒んだのだ、とする説があるのです。

また、五郎八姫が晩年に住んだ仙台の栗生地区には、隠れキリシタンの痕跡が残っているとも言われています。

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