『鎌倉殿の13人』内で、婚約者であった木曽義高を無残な形で奪われた、源頼朝と北条政子の長女・大姫。
義高死後、ふさぎ込む彼女に対し、幾度も縁談が持ち上がりました。
義高の死後、頼朝が婚約者として考えたのは、頼朝の甥で大姫の従兄弟にあたる公家・一条高能でした。
この一条高能、どのような人物だったのでしょうか。調べてみました。
一条高能の出自
一条高能は、頼朝の同母妹(同母姉かも?)である坊門姫と、公家の一条能保との間に生まれた嫡男でした。
母の坊門姫は、頼朝と都とをつなぐ橋渡し役ともなり、頼朝からも重用され、いくつかの所領(地頭職)なども与えられていました。
彼の姉には、摂関家の九条良経の妻、また姉妹に鎌倉時代に関東申次職を歴任し権勢を誇った西園寺家の西園寺公経の妻、花山院忠経の妻で、後鳥羽天皇の乳母である一条保子の3人がいました。
ちなみに、九条良経の妻、西園寺公経の妻の孫同士が結婚して生まれたのが、四代目将軍藤原頼経だったりします。
姉妹たちの嫁ぎ先はいずれも権門であり、また姉妹の一人は天皇の乳母ということもあり、一条高能自身も将来を嘱望されていました。
大姫と一条高能の縁談
可令嫁右武衛、〈高能〉給之由、御臺所、内々雖有御計、敢無承諾及如然之儀者、可沈身於深淵之由、被申〈云云〉是猶御懐舊之故歟〈云云〉武衛、傳聞之、此事更不可思召寄之由、屬女房、被謝申之
引用:『吾妻鏡』
高能と大姫との間に縁談が持ち上がったのは、義高の死からおよそ10年後、建久五年(1194)頃のことでした。
頼朝は、義高死後に後白河法皇から大姫を摂関家の近衛基通に嫁がせないか?という誘いを受けていました。
しかし、この縁談は断って、(近衛家ではなく九条家との関係強化を優先したため)その後大姫を後鳥羽天皇に入内させようと試みたようです。
ただ後鳥羽天皇には、頼朝と昵懇の間柄でもあった九条兼実の娘が嫁いでいたこともあり、頼朝は一度大姫の入内を断念しました。
大姫はこのころ10代後半、当時としては結婚適齢期を過ぎかけていました。そこで頼朝が目を付けたのが、頼朝自身の甥でもある高能だったのでしょう。
このころ、すでに高能の母で頼朝の姉妹である坊門姫もすでに亡く、頼朝としては次なる京との橋渡し役を作ることを期待していたはずです。
坊門姫の夫で頼朝とも良好な関係を保っていた忠能の父・能保の働きかけももしかしたらあったのかもしれません。
高能はこのころ19歳、大姫よりも2歳年上で、年頃もちかい間柄でした。
さらに鎌倉幕府からは京都守護、朝廷からは右兵衛督、蔵人頭などの重職に任ぜられるなど、高能は若いながらに出世頭でしたから、確かに良い縁談だったでしょう。
高能はこの縁談のためか、建久五年(1194)の夏に、鎌倉に赴きます。
しかし、この縁談を察知した大姫は激しく拒絶しました。もしもこの縁談を進めるのならば、私は川に身を投げる!と。
頼朝、北条政子がこの抵抗に対し、どのように感じたのかは分かりません。ただ、高能はあっさりとひきさがりました。
「この縁談はやめましょう」とあっさりと女官経由で政子に伝えて、大姫との縁談は破談となりました。
その後もしばらく、高能は鎌倉に滞在していたようで、翌月には頼朝ともども三浦の地を訪問したりしています。
高能の妻たち
さて、建久五年(1194)頃に大姫との縁談が持ち上がっていた高能ですが、どうもこのころにはすでに妾などを持っていた可能性があります。
彼はこの4年後、建久九年(1198)に早世しますが、この時点で彼はすでに4男1女の父親であったのです。
一条高能の正室:松殿基房の娘
一条高能の正室は、摂関家の松殿基房の娘でした。
ちなみに彼女の姉妹の一人・伊子は、木曽義仲の正室、後に曹洞宗の開祖・道元の母になったということでも有名ですね。高能の義兄・九条良経の妻になった姉妹もいます。松殿基房の抜け目のなさ?がうかがえるような……。
彼女は、高能の嫡子となった高能の三男・頼氏を産みました。この頼氏は、のちに初代連署・北条時房の娘と結婚し、北条家とも親しい関係性を築きました。
一条高能の側室:糟屋有季の娘
彼のおそらく最初の子を産んだのは、側室であった相模国の武士・糟屋有季の娘でした。
父親の有季は比企能員の娘婿でしたから、彼女は比企能員の(おそらく義理の)孫娘ということになります。
彼女がいつ頃高能と結ばれたのかは分かりませんが、もしかしたら大姫との縁談での鎌倉下りの際に、知り合ったのかもしれませんね。
彼女の産んだ高能の長男・能氏はのちに承久の乱で失脚、一説には処刑されたと伝わります。
一条高能の側室:四条隆季の娘
一条高能の側室の一人は、公家の四条隆季の娘でした。
彼女の父・隆季は、平清盛の義母・池禅尼の親族(従兄弟の子)であるなど、平家との関りが深い人物で、彼女の兄にあたる隆房は、平清盛の娘婿でもありました。
そんな平家とかかわりの深い一族の女性が、源氏とかかわりの深い高能の側室になったというのもなんだか不思議ですね。
彼女は、高能の次男(三男もしくは四男の可能性も)にあたる能継を産みました。この能継は兄・能氏同様に、承久の乱で失脚、一説には処刑されたといいます。
一条高能の側室:藤原(日野・姉小路)兼光の娘
一条高能の側室の一人は、藤原兼光の娘でした。父の兼光は、丹後局の娘(前夫・平業房との娘)と結婚していたこともあり、後白河院、後鳥羽天皇との関係性が深い人物でした。
彼女は、従五位下・侍従になっていた息子・行能を産んでいます。この息子は兄たちと比べると情報が少ないため、あるいは早世したのかもしれません。
一条高能の子孫たち
一条高能には四男一女がいました。
高能の子のうち、三人の男子(能氏、能継、行能)については、子孫が知られていません。承久の乱もあり、子孫がいたとしても、公家として名を遺すことはできなかったのでしょう。
高能の跡を継いだ嫡男・頼氏は北条氏の娘との婚姻もあり、承久の乱後も家を存続させることに成功しましたが、男系子孫のほうは頼氏の5代後の能頼以降、杳として知られません。
女系では、頼氏の娘の子孫(洞院実雄に嫁いだ娘が産んだ子)である公家・小倉家などがあります。
この小倉家は途中で養子を迎えたりしているので、小倉家内では、高能の血は途絶えているようです。
ただ、小倉公雄の娘の季子は洞院家に嫁ぎ、彼女のひ孫にあたる女性が近衛家に嫁いでいます。
最終的にこの血筋は後陽成天皇中宮・近衛前子へとつながり、現代まで天皇家に流れ続けることとなりました。女系を通してかろうじて、天皇家や公家へと血筋を残していたのですね。
ちなみに、高能の一人娘は、義母(実母?)の甥にあたる九条基家(九条良経と松殿基房の娘の間に生まれた男子)に嫁いで、息子経家を儲けました。
しかし、この経家は、子孫を残さなかったようです。