大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に、木曽義仲の長男・義高が出てきましたね。
また彼の従者として、海野幸氏なる武士が登場しました。この海野幸氏、実は同じく三谷幸喜さん脚本の『真田丸』に出ていたあの人たちのご先祖でもあるとか……。
木曽義高に忠義を尽くした海野幸氏について調べてみました。
海野幸氏の出自
海野幸氏は、信濃国の武将・海野幸親の息子(三男)とも孫(海野幸親の長男・幸広の子)とも伝わります。
海野幸氏の母親についてはよく分かりませんが、海野幸親は同族の海野氏の女性を正妻にしていたようですから、もしかしたら彼女が幸氏の母親かもしれません。
海野という苗字は、信濃国にあった摂関家の荘園・海野荘に由来するもので、そこに勢力を誇った海野氏は、清和天皇の第4皇子貞保親王の子孫(いわゆる清和源氏)とも、古代豪族滋野氏の流れとも、あるいは信濃国土着の武士の家系だったとも言います。
ただ幸氏の父親と言われる幸親は、実はもともと海野氏の出ではなく、木曽中原氏(木曽義仲の乳父・中原兼遠の一族)出身と言われることもあります。
海野幸氏と木曽義仲
海野幸氏やその一族は、木曽義仲が挙兵するやいなや義仲のもとにはせ参じました。海野幸親は、義仲の侍大将の立場にまでつきました。
幸氏の長兄とも父とも伝わる海野幸広は、幸氏が義高に付き従って鎌倉に赴いた後、寿永二年閏十月に義仲軍と平家との間に引き起こされた水島の戦いで先鋒を務めますが、平家の猛攻により戦死して果てました。
父とも祖父とも伝わる海野幸親は、義仲の都落ちにも付き従い、最終的に寿永三年一月の粟津の戦いにて討ち死にします。幸親の首は、そのすぐ後に討ち取られた義仲ともども、七条河原に並べて晒されたと伝わります。
海野幸氏の一族は木曽義仲に忠実に仕え、運命をともにしました。
海野幸氏と木曽義高
自去夜、殿中聊物怱是志水冠者、雖爲武衛御聟、亡父已蒙△勅勘、被戮之間、爲其子其意趣尤依難度、可被誅之由、内々思食立、被仰含此趣於眤近壯士等女房等伺聞此事、密々告申姫公御方仍志水冠者、廻計略、今暁遁去給此間、假女房之姿、姫君御方女房、囲之出而海野小太郎幸氏、者、與志水同年也日夜在座右、片時無立去仍今相替之、入彼帳臺、臥宿衣之下、出髻〈云云〉日闌後、
引用:『吾妻鏡』
海野幸氏は、寿永二年(1183)三月に、鎌倉に人質として赴くこととなった木曽義高の従者として、ともに鎌倉に下ります。
海野幸氏は承安二年(1172年)生まれと伝わりますので、義高より一つ年上(同い年という説もありますが)のまだ10代前半、少年と言ってもいいような年齢の若武者でした。
しかしそれから1年もたたぬうちに、兄(父?)の幸広、父(祖父?)の幸親、そして主君である義仲までもが討ち取られてしまいます。そして鎌倉方の魔の手は、義高にも伸びようとしていました。
源頼朝自身、平清盛が義母・池禅尼の嘆願によって死罪を免れ、流罪になった人物ですから、義高を生かしておく危険性というのを、いやというほど熟知していたからでしょう。
そして、義高は許嫁である頼朝の長女・大姫や頼朝正室・北条政子、鎌倉殿に仕える人々の手助けの元、鎌倉を抜け出します。
その際、幸氏は義高の身代わりとして、鎌倉の義高の寝所に身をひそめました。まるで、義高がまだそこにいるかのように見せかけるために。
これが主従の永遠の別れとなりました。義高は武蔵国まで落ち延びるものの、最終的に頼朝の追手に殺されてしまいます。
鎌倉に残った幸氏はことが露見した後、殺されることを覚悟していたことでしょう。
しかし彼が罪に問われることはありませんでした。頼朝はむしろ、幸氏の忠節ぶりをほめたたえ、彼を御家人に取り立てたのです。
その後の海野幸氏
海野幸氏は、その後海野氏の当主として、鎌倉に仕えました。
父幸親、長兄幸広は戦死しており、さらに次兄の海野幸長(親鸞の弟子・西仏と同一人物説あり)はすでに出家をしていたため、跡を継ぐ人が他にいなかったのです。
かつての主を殺した人物に仕える―彼の内心がどのようなものだったかは分かりませんが、北条政子は木曽義仲の妹(娘とも)である宮菊姫を庇護するなどしていましたから、特に鎌倉に敵対する理由もなかったでしょう。
彼は海野氏の当主として、和田合戦や承久の乱などの戦に、鎌倉方として出陣しています。
彼が当主を務めていた時期に、海野氏の勢力は信濃国で強大なものになり、時に甲斐国守護・武田信光と領地争いなどをすることもあったとか。(この時は、幸氏がきっちりと勝っています。)
海野一族は、幸氏の代には信濃国にとどまらず、隣国である上野国の西のほうにまで広がっていきました。
海野幸氏がいつごろまで生きたのかは分かりません。しかし、建長二年(1250)3月時点で、幸氏のことと思われる「海野左衛門入道」なる人物の記録が残っていることからすると、少なくともそれまでは生きていたものと思われます。
かつての主君義仲、そして義高の死後、彼は半世紀以上も生き延びたのです。
弓の名手としての海野幸氏
羽林、令歴覽小壺海邊給小坂太郎、長江四郎等、儲御駄餉有例笠懸結城七郎朝光、小笠原阿波彌太郎、海野小太郎、幸氏、市河四郎義胤、和田兵衛尉常盛等、爲其射手次海上妝舩、
引用:『吾妻鏡』
海野幸氏は弓の名手として知られていました。彼は文治六年(1190)の鶴岡八幡宮の弓始めを皮切りに、頼朝の巻狩りや流鏑馬などの行事の場で、たびたびその卓越した弓の術を披露しています。
北条泰時の孫で後に四代目の執権となる北条時頼の流鏑馬の指南役を務めたこともあったようです。
ちなみに海野幸氏は流鏑馬を得意としたことからもわかるように、弓はもちろん乗馬にも長けていたようです。
海野氏の同族・望月氏は朝廷に軍馬を献上する勅旨牧の一つ・望月牧を所有しており、木曽義仲に1500頭もの軍馬を提供したとも言います。おそらく海野幸氏は、望月牧などの信濃の馬に乗ることで、馬術を磨いたのでしょうね。
海野幸氏は真田幸村のご先祖様?
実は海野幸氏は、あの「真田丸」で有名な真田幸村(真田信繁)のご先祖様だという説があるのです。
真田氏がどこから出てきた一族なのかは諸説あるのですが、海野幸氏の孫が「真田七郎」と名乗っったところから始まったとする説、戦国時代の武将・海野棟綱の子孫だとする説があるのですね。
それらの説に則るならば、海野幸氏は真田家(真田昌幸、真田信之、真田信繁【幸村】)らのご先祖様ということになります。
ただ真田氏、実は出自が謎に満ちている一族でして……。なんかいきなり戦国時代に、真田郷というところで、真田と名乗る武士がいきなり出てきたところから一族の歴史が始まっているんですよね。
海野氏の末裔、というのは嘘で、ただ信濃国の武家・海野氏の権威にすがりたかった……なんてこともあるのかもしれません。
ただ、真田氏のご先祖では?とも言われる室町時代の武士・実田氏は、海野氏の同族・根津氏の配下ではありました。
真田氏は海野幸氏の直系ではないかもしれませんが、根津氏など、海野氏の同族の流れを引いていてもおかしくないかもしれませんね。
ちなみに幸氏の直系である海野氏の宗家は、戦国時代に滅亡していますが、海野氏を名乗る武士は江戸時代の真田氏の家臣にいますから、海野という苗字は途絶えたわけではないようです。