後鳥羽院に巻き込まれなくてよかった? 宜秋門院九条任子

女院

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

鎌倉時代初期の上皇としてやはり有名なのは、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇でしょう。

その後鳥羽上皇の妻たちの中で最も家格が高かったのが、中宮であった宜秋門院こと九条任子でした。

頼朝の盟友の娘として生まれながらも、頼朝に振り回された感もある宜秋門院九条任子について紹介していきます。

父は摂政関白九条兼実、母はその妻の藤原兼子

宜秋門院 藤任子 後鳥羽后 月輪関白第一女 母従三位季行女従二兼子 文治五十一十五 叙従三 十六 建久元正十一為女御十七 同四月廿六為中宮 正治二六廿八壬子 院号廿七 建暦二正十三 辞院号幷年官年爵 建仁元十十七 為尼清浄智 三十 暦仁元十二廿八 御事 六十五

引用:『女院小伝』

宜秋門院こと九条任子は、承安三年(1173)に九条兼実の知られている限りでは唯一の娘として生まれました。(兼実には他に玉日姫という親鸞の妻となった女子がいたという説もありますが……)

母の藤原兼子は、兼実の後継者となった九条良経を産むなど、事実上兼実の正妻格の女性でした。

ちなみに兼子は高松院(鳥羽院皇女姝子内親王、二条天皇中宮)の乳母子でもありました。

もしかしたら、まだ幼女の任子は高松院に目通りしたこともあったかもしれませんね。

秘密の恋に落ちた女 高松院 姝子内親王
その女の前には栄華に満ちた日々が待っているはずでした。しかし歯車は合わず、彼女は姉や母のような栄華を手に入れることは、できませんでした。しかし彼女は、姉が持つことがかなわなかったものをいくつか手に入れ、そしてそれがために寿命を縮めたのです。...

後鳥羽天皇へ入内

文治二年十二月一日御ふみはじめせさせ給ふ。御とし七なり。同六年女御まいり給ふ。月輪関白殿の御むすめなり。きさきたちありき。後には宜秋門院と聞えし御事也 この御はらに春花門院と聞え給ひし姫宮ばかりおはしましき。

引用:『増鏡』

九条任子は、すくすくと成長していきます。彼女は、7歳年下の後鳥羽天皇が元服すると、その后になることが決まります。

父九条兼実は後鳥羽天皇の元服時の加冠役、娘は中宮……任子の未来には一つも曇りがないように思えました。

しかしこのころ、一人の男が少しずつ権勢をつよめていきます。

男の名前は源(土御門)通親、彼は後白河院に様々な宝物類を献上したり、後白河院鍾愛の皇女・覲子内親王が宣陽門院となった際には院別当にも任命されていました。

しかし、九条兼実はまだまだ権威を誇っていました。

兼実は鎌倉にて東国の武士の惣領となっていた源頼朝とも関係を築くなどして、さらに後白河院らの院近臣にも圧力を加えていきます。

さらになんと、入内から5年がたち、任子が身籠ったのです。ここで皇子が生まれれば、確実に兼実の権勢は永劫にも続いていたでしょう。

宜秋門院の出産と承明門院の出産

九条任子の妊娠期間中に、驚愕の事実が発覚しました。

源(土御門)通親の養女で、後鳥羽天皇の後宮に入っていた源在子も少し遅れて妊娠をしていたことが分かったのです。

ここでもしも任子が男子を産めなかったら?在子が男子を産んだのならば?

九条兼実の心は千々に乱れたことでしょう。そして不安は的中します。

九条任氏が建久六年(1195)の秋に産んだ後鳥羽天皇の初子は、皇女でした。

父の没落を見ることはなく 春華門院昇子内親王
院政期、莫大な所領を所有していたことで知られるのが、八条院こと鳥羽天皇皇女・暲子内親王でした。 彼女の遺領を引き継いだのが、後鳥羽天皇唯一の正嫡の娘・春華門院昇子内親王です。 後鳥羽天皇の嫡女として生まれて 春華門院 昇子 後鳥羽第一女 ...

この時生まれた昇子内親王は、生まれてすぐ内親王宣下を受け、膨大な所領を持つ八条院の養女となり、さらに春華門院の女院号を得るなど、中宮腹の皇女として大層重んじられました。

それでも彼女は皇女でした。皇女であれば、基本的には皇位を継承することはかないません。

兼実は任子が再び身籠ることを望んだことでしょう。

しかし、任子の出産のおよそ3か月後、源在子が産んだのは男子でした。

さらに、源頼朝も同時期、娘大姫の入内を考えていました。そうすると、大姫よりも格上となる中宮任子は非常に邪魔でした。

―翌建久六年(1196)、九条兼実は失脚します。兼実の失脚と同じ時期に、任子も後宮を退出し、実家の九条家に戻ります。

任子の娘、昇子内親王はすでにこの時、八条院の手元に預けられていました。

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九条家での生活

及終夜今日京都使者參去年十二月廿八日、宜秋門院崩御〈春秋六十七云云〉

引用:『吾妻鏡』

実家の九条家に戻った任子は、その後正治二年(1200)に院号宣下を受け、宜秋門院と名乗るようになります。

翌年の母の死去時には、彼女は父が帰依していた法然上人のもとで出家します。

父兼実の死、さらに娘昇子内親王(春華門院)の死といった悲しいことはありましたが、後鳥羽天皇とは距離を取りつつも穏やかに暮らしていたようです。

建暦二年(1212年)には、院号や叙位権(年官、年爵)を停止するなど、いよいよ俗世とは距離を取っていました。

おそらく、承久三年(1221)に、かつての夫後鳥羽上皇が隠岐に流されたときも、あまり気にかけていなかったのではないでしょうか?

後鳥羽上皇のことよりも、むしろ実家の九条家がどうなるかのほうが気になっていそうです。彼女の姪にあたる九条立子(東一条院)は順徳天皇の后でしたからね。

幸いながら、承久の乱後九条家は没落することはありませんでした。むしろ、鎌倉幕府四代目将軍藤原頼経を排出するなど、栄えていきました。

晩年には、彼女の大姪にあたる九条竴子(藻璧門院)が後堀河天皇に入内するのを見届けたことかと思われます。

宜秋門院こと九条任子は、暦仁元年(1239)に崩御しました。ちなみに彼女の死からおよそ1カ月後、後鳥羽上皇が隠岐島にて崩御しています。

後鳥羽上皇は、任子の死を聞いて気落ちしたのでしょうか?そもそも亡くなったことを知っていたのでしょうか?

すべては分かりません。

宜秋門院と宜秋門院丹後

むなしきも色なるものと悟れとや 春のみ空のみどりなるらむ

引用:『千載和歌集』宜秋門院丹後の和歌より

さて、宜秋門院その人のことはあまり知られていないと思われますが、彼女の女房である「宜秋門院丹後」は結構有名ではないでしょうか?(「祐子内親王家紀伊」みたいな感じで……)

宜秋門院丹後は、源三位頼政こと源頼政の姪にあたる女性で、もともと九条兼実に仕える女房の一人でした。そのため当初は「摂政家丹後」と呼ばれています。

その後、源頼政の娘である二条院讃岐らとともに、兼実の娘の九条任子が入内する際におつきの女房となります。

宜秋門院丹後は宜秋門院に忠実な女房であったようで、任子が出家する時に同じように出家を果たしています。

その後は尼となった任子とともに生活していたようですが、承元二年(1208)の「住吉社歌合」まで、尼僧姿で多くの歌会に参加し、和歌を残しました。

ちなみに宜秋門院丹後の出席している歌会は、九条家のものももちろん多いのですが、後鳥羽上皇主催のものもありました。

何なら、主人である任子が宮中を退いた後にも後鳥羽上皇主催の歌会に出席しています。なんか複雑……。

彼女の消息は、承元二年(1208)以降よく分かっていません。おそらく承久の乱以前に亡くなったのではないでしょうか。

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