戦国時代の医者たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

「麒麟が来る」第一話で「望月東庵」なるお医者様が出てきましたね。
この人はどうも架空の人物、ということですが、戦国時代にはどのようなお医者さまがいたのでしょうか。

調べてみました。

田代三喜

武蔵国出身で、「医聖」とまで称された医師です。僧侶となった後、明(中国)へ渡り、医学を修めました。
10年ほど明国で過ごした後、日本へ帰り、古河公方(下総国にいた、足利将軍家の分家)に招聘され、そののち武蔵へ帰り、多くの民衆の命を救いました。
弟子のひとりに曲直瀬道三がいます。

永田徳本

甲斐国を中心に活動した医師です。田代三喜から中国由来の医術を学び、また修験道なども修めました。
戦国大名の武田信虎・武田信玄親子の侍医となりましたが、武田家滅亡後は、各地を漂泊して民衆の診察に従事しました。
一説では118歳で亡くなったといわれており、かなり長生きしたようです。

曲直瀬道三

上記田代三喜の弟子。近江源氏の佐々木氏の庶流の出身。足利学校に在籍中に、田代三喜と出会い、その弟子となりました。
戦国時代を代表する医者で、足利義輝、織田信長、松永久秀、細川幽斎、細川晴元、毛利元就、島津義弘ら、多くの貴人の診療にかかわりました。
多くの医書を残し、また多くの弟子を育てました。茶の湯が好きな文化人的側面を持っていたり、キリシタンだったり、松永久秀に性技指南書を伝授したり、なかなか面白い人物です。

曲直瀬玄朔

曲直瀬道三の弟子で甥で養子。道三の後継者として医学を学び、正親町天皇を診察するなど、養父に負けず医師としての名声は高い人物でした。
しかし、秀次事件に連座したことで失脚してしまいますが、今度は後陽成天皇の治療に成功し、再び名声を取り戻します。
その後は徳川幕府にも仕え、朝廷と幕府の典医となりました。

曲直瀬正琳

曲直瀬道三の弟子で娘婿。伊予国の一柳氏の末裔だといいます。
豊臣家をはじめとして、正親町上皇ら皇族までも診察しました。その後、徳川家に仕え、江戸幕府奥医師養安院家の始祖となりました。

施薬院全宗

典薬頭を世襲していた公家の丹波氏の出身。苗字は薬院とも。
もともとは比叡山の僧侶であったが、織田信長の比叡山焼き討ち後に還俗し、曲直瀬道三に弟子入りして、医者となりました。
還俗後も比叡山に関してはかなり思い入れがあったようで、比叡山の復興に尽くしました。
また、奈良時代以降廃絶していた「施薬院」という貴賤を問わず人々を治療する施設の復興もしました。
一方で政治的にも権力を持っていた人物らしく、秀吉に仕えているときに、いわゆる「伴天連追放令」の起草を担当していたりもしています。

伊丹師親(慶徳庵道甫)

足利尊氏の側近・高師直の子孫。ただ彼自身はすでに零落していたようで、当初は浪人でした。
曲直瀬道三に弟子入り後、曲直瀬道三と付き合いがあった島津義弘に頼まれて薩摩国に下向し、島津義弘の侍医となりました。

減敬

実際にいたかどうかもわからない、なかば伝説上の医者。甲斐国出身の医師で、家康の最初の妻・築山殿と結託し、その使者となって、甲斐の武田家と同盟を組ませようとしました。
しかしたくらみは露見し、築山殿と、築山殿の息子信康は死に追いやられることになったといいます。

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