中世史(日本史)

伊賀越えの立役者・多羅尾光俊

本能寺の変後、畿内にいては危ないということで徳川家康はいわゆる「神君伊賀越え」を果たし、浜松まで這う這うの体で逃げ帰ることとなります。 その伊賀越えにおいて、家康に助力をしたことで知られるのが、甲賀衆の元締めとも言われている甲賀の武士・多...
近世史(日本史)

田沼意次の妻(正室、継室、側室)たち

江戸幕府の老中として当時としては画期的な重商主義的な政治を行った田沼意次。 様々な財政政策を行ったと同時に、過激なまでの賄賂政治(当時の風潮では「当たり前」のことでしたが)を揶揄されるなど毀誉褒貶の激しい人物でもありますが、彼の時代には蝦...
近世史(日本史)

一橋治済(徳川治済)の妻(正室・側室)たち

よしながふみ先生の『大奥』の中には様々な人物が出てきますが、その中でもっともサイコパスな面が描写されたのは「一橋治済」(作中では女性として描写)でしょう。 作中ではそのサイコパスっぷりから「怪物」などとも表現されていた彼女ですが、史実の一...
中世史(日本史)

江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠の側室たち

江戸幕府二代目将軍の徳川秀忠。 パブリックイメージとしては、姐さん女房の御台所・お江に頭が上がらないような雰囲気ですが、そんな彼もこっそり側室を持ったりしていたようです。 この記事では、江戸幕府二代目将軍として、江戸幕府の枠組みを整備し...
中世史(日本史)

家康四男・松平忠吉の妻(正室・側室)と子供・子孫

江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠には一人だけ同母の弟がいました。 彼の名前は松平忠吉、家康と側室・西郷局ことお愛の方との間に、家康の四男・福松丸として生まれた秀忠の同母弟は、しかし28歳という若さで早世してしまいます。 もしも長生きしていた...
中世史(日本史)

豊臣秀吉の子供は鶴松・秀頼だけだったのか?豊臣秀吉の子供たち

豊臣秀吉には十数名の側室がおり、そして一説には数百人以上の女性と関係を持った……と言われています。 しかし、彼の子供として歴史に名前を残しているのは側室・淀殿との間に生まれた大坂夏の陣にて自害に追い込まれた息子・秀頼、そして同じく淀殿との...
中世史(日本史)

旭(朝日)姫 秀吉の異父妹にして家康の継室の一生

徳川家康は息子・信康とともに正室・築山殿(瀬名姫)を失った後、しばらく再婚しませんでした。 この時彼のそばには三河守護代の家柄の側室・西郷局、また武田氏ゆかりの下山殿など、それなりの家柄の側室らがおり、彼女たちとの間に幾人も子が生まれてい...
中世史(日本史)

柴田勝家の養子・実子・子孫たち

一時は秀吉と並び立ち織田家旧臣の中で権力を持っていたこともある柴田勝家。 主君・信長の妹であるお市の方の再婚相手にもなるなどしましたが、結局本能寺の変から一年たらずのうちに秀吉に追い詰められ、妻・お市の方ともども自害して果てることとなりま...
中世史(日本史)

柴田勝家の妻(正室、継室、側室)たち

織田信長の重臣であった柴田勝家。 後にお市の方の夫、そして彼女の三人の娘―後世に「浅井三姉妹」と伝わる三人の少女たちの継父にまでなった人物ですが、織田家当主などをめぐる争いの中で、豊臣秀吉と敵対、北ノ庄城にて妻・お市の方とともにその命を閉...
中世史(日本史)

家康側室にして秀忠母・お愛の方の実家の家族構成と前の夫

家康の側室であり、後の二代将軍秀忠の母となったお愛の方(於愛、西郷局)は、家康と結ばれる前に別の人と結婚していた女性でした。 彼女は夫を亡くした後、家康のそば近くに仕えるようになり、側室となって息子たちを産んだわけですが……。 そんなお...