江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠の側室たち

中世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

江戸幕府二代目将軍の徳川秀忠。

パブリックイメージとしては、姐さん女房の御台所・お江に頭が上がらないような雰囲気ですが、そんな彼もこっそり側室を持ったりしていたようです。

この記事では、江戸幕府二代目将軍として、江戸幕府の枠組みを整備した秀忠の側室について調べてみました。

徳川家光の妻(正室・側室)たち
「生まれながらの将軍」である徳川幕府三代目将軍・徳川家光。参勤交代など江戸幕府の中央集権化を大いに進め、辣腕を振るいました。 一方で私生活のほうはどうだったかというと……。政略結婚で迎えた正室をすさまじいまでに嫌い、では側室を迎えるかとい...

徳川秀忠の側室:於静之方(浄光院)

御妾於静之方 武州板橋在竹村神尾氏娘也 慶長年中奥勤依懐妊信勝院比丘尼●抱 慶長十六年五月武州足立郡大昌木村而幸松君ヲ産 寛永十二乙亥年九月十七日逝去奥州会津浄光寺に葬

引用:『徳川幕府家譜』

秀忠唯一の側室!としてドラマや小説でもよく出てくるのが於静の方ですね。

出自についてはかつての関東の覇者・北条氏家臣であった神尾氏の娘と伝わります。異説では板橋の大工の娘とも。

江戸城に出仕していたことを考えると、武士の娘というのがしっくりきますが……どうなんでしょう。

彼女は江戸時代初期・慶長年間に秀忠の乳母・大姥局の侍女として江戸城に奉公に上がります。

秀忠は乳母のもとで働くこの若い娘を気に入り、正室・お江の目が届かないことを理由に関係を持ってしまいます。

彼女は秀忠の寵愛をひっそりと受け続けた結果、妊娠してしまいます。

びっくりしいた秀忠ですが、お江を恐れたのか、於静を側室として公にすることはありませんでした。

秀忠は身籠った於静をひそかに江戸城から出して、武田信玄の次女で穴山梅雪の未亡人だった見性院のもとで保護してもらいました。

見性院のもとで、於静は秀忠の四男・幸松を産み落とします。(姉婿の家で出産したという説もあります)

しかし秀忠はなかなかこの幸松を自身の子であると認めようとしませんでした。

幸松はそのまま見性院の手元で育てられ、その後見性院の仲立ちにより、信濃高遠藩主保科正光の養子となりました。

幸松を産んだ後は江戸城に戻ることのなかった於静もまた、幸松とともに高遠の地に赴きます。

彼女は幸松とともに高遠城の三の丸に住みました。

幸松は、養父・保科正光や保科家の家臣の薫陶を名君としての素質を磨きました。

於静は幸松が元服、保科正之と名乗り、高遠藩主となったのを見届けて寛永十二年(1635)に亡くなりました。

彼女が亡くなった後、ようやく於静の存在は公になり、彼女は側室として認められるようになりました。

徳川秀忠の側室:家女(秀忠長男・長丸の母)

長丸君 慶長六辛丑年於江戸城御誕生 御母公ハ家女 同七壬寅年九月廿五日御逝去 御年二歳

引用:『徳川幕府家譜』

秀忠正室・お江が三人目の子供を身籠っていた時、ある一人の女が秀忠の最初の息子を生みました。
お江はそれまで二人の子供を産んでいましたがいずれも女子、そしてまたこの時、お江が身籠っていた子供も女子でした。

秀忠は初めての男子ということもあって有頂天だったのでしょう、この子供に自身の幼名であった「長丸」を与えました。

しかしこの子供は翌年に亡くなってしまいます。

長男・長丸が亡くなった3年後、お江は4人の娘を産んだ後、待望の息子・竹千代-後の三代将軍家光を産みました。

さて、この長丸の母親ですが「家女」とのみ表記されています。

彼女は江戸城で出産したようですので、江戸城で秀忠に仕えていた侍女か何かだったのかもしれません。

名前も残されていない、またその後彼女が正式に側室になった気配もない(出産時に亡くなったりした?とかで側室に出来なかった可能性もありますが)ことを考えると、武士とかでもなく、かなり身分の低い女性だった可能性も否定できません。

徳川秀忠の側室?:春日局

徳川秀忠の後継者となった三代将軍・家光は秀忠と御台所・お江との間に生まれた子供だと一般的に言われています。

しかしお江が次男・忠長を偏愛したと伝わること、またお江の葬儀を長男・家光ではなく次男・忠長が取り仕切ったことなどから、お江の息子は忠長のみで、実は家光は別の女性との間に生まれた庶子なのでは?という話があります。

実際お江は家光の前に立て続けに4人の娘を産んでいます。

なんとしても後継ぎの母親になりたかったお江が、ひそかに側室に産ませた子供を自分の子供だと公称する、というのは全くあり得ない話でもなさそうですね。

さて、実母からはあまり愛されなかったと言われている家光ですが、そんな彼にとてつもなく愛をそそいで育てたことで有名な人が一人いますよね。

そうです、家光の乳母として大奥の権力者にのし上がり、さらには朝廷との折衝までこなした江戸幕府の誇るスーパー乳母殿、春日局ですね。

春日局が家光に対し惜しみなく愛をそそいで育てた理由に、実は彼女が家光の実母だったのでは?という説があります。

正室・お江との間になかなか男児が生まれない秀忠が、こっそり側室を持った……というのは、ありえない話ではないでしょう。

実際秀忠はお江の目をかいくぐって於静の方を寵愛していますからね。

秀忠の寵愛を受けて身籠り、そして男子を産んだ春日局、しかし子供は正室の産んだ子だと処理されてしまい……しかし、それを哀れんだ秀忠らが、彼女を乳母としたというわけですね。

とはいえどこの説には根拠はありません。史書の類では、すべて家光の母親は「御台所(=お江)」だと表記していますからね。

春日局が家光の実母、という説に関しても、父親は秀忠とする説と、家康その人だと言う説(があります。

家光の父親が秀忠ではなく家康、という説についてですが、春日局は家光を後継者だと認めてもらうために駿府の家康に働きかけているのですが、ここから春日局と家康の間に親密な何かがあったのでは?という風に生まれたみたいですね。

また家光はなぜか「二世権現」「二世将軍」と書いた紙を持ち歩いていたことも家康の実子説の根拠としてあげられています。

もしも家光の父親が家康だったら、春日局は秀忠側室ではなく家康側室だったということになります。

ただ家光が秀忠の子であり、春日局が家光の母だったとするならば、春日局は秀忠の側室だった時期があったということになります。

タイトルとURLをコピーしました