よしながふみさんの漫画『大奥』の誇るヴィラン・一橋治済。
まさしくサイコパスとしか言いようのない彼女によって、多くの人が陥れられその運命を狂わされていきますが、彼女の被害者の一人に、将軍家斉の側室の一人・お志賀がいました。
お志賀の方はのちに家斉の側室から退き「滝沢」と名乗って大奥総取締役につくのですが……。
さて、漫画『大奥』の中におけるお志賀の方の行動は当然ながらフィクションなのですが、このお志賀の方は実在した人物でした。
彼女は将軍家斉の数多いる側室の一人で、家斉の五女・総姫を産んだことで知られています。
そんなお志賀の方は実際どのような人物だったのでしょうか。
将軍家斉側室・お志賀の方について調べてみました。
お志賀の方は能勢頼能の娘
女子 大奥に仕へ、のち将軍家にみやづかへし、永岡とめさる。総姫君の母堂なり。
引用『寛政重修諸家譜』
お志賀の方は旗本の能勢頼能の娘として生まれました。
父の能勢頼能は徳川吉宗の時代から幕府に出仕しており、小普請、御書院番士、組頭などを勤め、安永三年(1774)に59歳で亡くなっています。
頼能は後継ぎに恵まれなかったみたいで、家督は養子が引き継いでいますね。
お志賀の方は『寛政重修諸家譜』では、一応頼能の実の娘みたいですが、おそらく頼能が年を取ってから生まれた娘みたいです。(寛政八年【1796】に娘を産んでいることなどを考えると、どれほど早くても1770年前後の生まれと考えられます。)
お志賀の方が生まれた頃には父はすでに養子などを迎えていましたから、父が亡くなった後は血のつながりのない家族に囲まれて大変な思いもしたのかもしれません。
『大奥』作中ではお志賀の方は父の死別、母の再婚などで肩身が狭くなった、みたいなことを語っていましたが、史実のお志賀の方も養子の兄弟の存在、幼いころに父が亡くなるなど家庭面では大変そうですね。
お志賀の方の大奥入り
お志賀の方は天明元年(1781)、十代将軍家治の時代に大奥に入り中臈となりました。
この時お志賀の方はおそらく10代前半?くらいでしょうか。
中臈、それも将軍付き中臈は側室候補でしたが、当時の将軍家治は新たな側室を迎え入れることなく、天明六年(1786)に亡くなってしまいます。
中臈たちはそのまま将軍家斉へ引き継がれたようです。
お志賀の方がいつ頃、将軍家斉の目にとまったのかは分かりません。
彼女は家斉の将軍就任後すぐに寵愛を受け始めたのではないようで、お志賀の方が妊娠したのは家斉の将軍就任からおよそ10年後のことでした。
お志賀の方、側室として総姫を産む
父の死亡年、子供を産んだ年などをを考えるとお志賀の方は家斉とは同年代だったと思われます。
20代半ば(と思われる)の彼女は、家斉の将軍就任からおよそ10年後、寛政八年(1796)に家斉の五女・総姫を出産しました。
この出産の功績のため、お志賀の方はそれまでの中臈から、より身分が高いとされている御客会釈にまで昇進します。
彼女の生んだ総姫がもしも成長していたら、異母姉・淑姫や異母妹・浅姫、溶姫らのように有力大名に嫁ぎ、華麗な生活を送ったことでしょう。
しかし総姫は残念ながら翌寛政九年(1797)に、1歳ほどで亡くなってしまいます。
その翌年、お志賀の方は再び身籠りますが、この時は流産に終わります。
ちなみにこの時彼女が身籠っていた子供は男子だったそうで、もしも無事に生まれていたのならばやはり有力な藩などに養子に行ったことでしょう。
それ以後、お志賀の方は身籠ることはありませんでした。彼女が1770年前後の生まれだとすれば、30代になっていわゆる「お褥すべり」をしたのかもしれません。
お志賀の方の死
子供を失ったお志賀の方ですが、彼女はその後も大奥に仕えていたようです。(とはいえどよしながふみさんの『大奥』のように大奥総取締になったことはなさそうですが。)
お志賀の方は大奥の高級女官・永岡として家斉の大奥に勤め続けました。
お志賀の方は文化十年(1813)、江戸に化政文化が花開くさなかに没します。
天明元年に大奥入りしてからすでに30年以上の時が経っていました。
死因は不明です。
没年齢は不明ですが、将軍家斉と同年代であることなどを考えると、享年は40歳前後でしょうか?
戒名は慧明院智岳貞輪大姉と伝わります。
なんとなく賢そうな戒名なので、もしかしたら生前のお志賀の方も、その頭の良さなどを評価されていた……のかも。