徳川家光の妻(正室・側室)たち

近世史(日本史)

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「生まれながらの将軍」である徳川幕府三代目将軍・徳川家光。参勤交代など江戸幕府の中央集権化を大いに進め、辣腕を振るいました。

一方で私生活のほうはどうだったかというと……。政略結婚で迎えた正室をすさまじいまでに嫌い、では側室を迎えるかというと女ではなく男(当時は男色は珍しいことではありませんでした)に走る始末。

ようやく女性に手を出し始めたのは30歳を超えてからのことでした。

しかしそこから亡くなるまでのおよそ15年ほどで、彼は多くの女性を側室に迎えることとなります。

この記事では、徳川家光の側室(正室・側室)について紹介します。

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許嫁?:徳姫

福岡藩主黒田家の記録によると、黒田長政の次女・徳姫は当初、家光の妻になるという話が持ち上がっていたそうです。

黒田長政は家康の養女・栄姫と結婚しており、徳姫はこの二人の間に生まれた娘でした。

長政は関が原での戦功が著しく、それへのお礼も兼ねていたのかもしれませんね。

徳姫は家光の1歳年下、成立していれば似合いの結婚となったでしょう……がこの結婚話は流れました。

さすがに一大名の娘が、将軍の妻となるというのは格式的にあまりよろしくないという判断だったのかもしれません。

もしもこの婚姻が成立していたのならば、江戸時代後半の11代将軍家斉の妻・広大院や13代将軍家家定の正室・天璋院篤姫に先立って一大名家の娘が将軍御台所になっていたということになりますね。

徳姫はのちに、榊原忠次(徳川四天王・榊原康政の孫)に嫁ぎますが、成長した子を産むことなく早世しました。

側室?:お古五の方

伝承上の、家光の初恋の相手として名前が伝わる人物です。

詳細は不明ですが、家光の母・お江の侍女だったといいます。武家の娘だったのでしょうか?

家光は母の侍女であったお古五を見初め、母に黙ってひそやかにお古五のもとに通い詰めました。なんでもこの時、正体がばれないように能面をかぶっていたとか。洒落てる……。

しかし、お古五が身籠ってしまい、それがお江に露見したことで大問題になりました。

当時、大奥はまだ黎明期と言え、すでに男性禁止の風潮はありました。そんな中父親の分からぬ子を身籠った侍女が出た―お江は、お古五を許しませんでした。

お古五の相手―家光の身代わりとして一人の武士が処刑されます。

家光はまだ将軍ではなく、また未婚でした。家光へのスムーズな将軍継承のためにも、お古五の腹の子の父親は、家光であってはならなかったのです。

お古五もまた、腹の子ともども火あぶりにして処分されたと言います。

このお古五の死が家光に与えたダメージは大きく、家光が成人後、しばらくの間女性に振り向こうとしなかったのはこのことが影響したのでは……とも言われています。

正室(御台所):鷹司孝子(本理院)

家光の正室(御台所)は、関白・鷹司信房の娘の鷹司孝子でした。

母方からは豊臣秀吉によって自害に追い込まれた有力武将・佐々成政の血をひく(母・輝子が佐々成政の娘)ため、ある意味豊臣の敵同士の結婚……かも。

彼女は家光より2歳ほど年上でした。彼女は摂関家の姫君として生まれましたが結婚の話もなく、かといって出家するわけでもなく鷹司家の屋敷で過ごしていたようです。

そんな彼女に舞い込んだのが、将軍・家光との縁談でした。

彼女は元和九(1623)年に思い出深い京の地を離れ、家光の母であるお江の養子となります。そして寛永元(1624)年に盛大な祝言、そして翌年に正式な婚姻を終えて名実ともに御台所(お江もいたので「若御台」と呼ばれていたようです)となったのですが……。

家光は彼女のことがとにかく大っ嫌いでした。

なぜそこまで彼女を嫌ったのかは分かりません。お江の息がかかっていることを警戒したのか、お江にあまりよい感情を持っていない春日局に何か吹き込まれたのか……。

あるいは、家光自身がこのころはまだ女性に興味がなかったことが悪く影響したのかもしれません。

彼女は御台所でありながら大奥を追い出され、江戸城内の中の丸に住まわされることとなります。さらに御台所の称号をはく奪、「中の丸様」と呼ばれる有様。

当時の習いとして、正室に子がいない場合は、側室の子供は正室の子として扱われるのですが、家光はそれも拒否しました。さらに御台所としての叙位も許しませんでした。

家光は彼女に先立って死去するのですが、形見分けの品も微々たるものでした。

彼女にとって幸いだったのは、家光の息子・家綱は彼女のことを母親と慕っていたことでしょう。また、彼女の弟の信平は、姉とは異なり夫の家光の厚遇を得ることが出来、鷹司松平家の祖となっています。

家光死去後、彼女は出家して、己を嫌った夫の菩提を弔う日々を送りました。義理の息子・四代将軍家綱の御代に亡くなっています。

御台所でありながら御台所をはく奪された異例の姫君・鷹司孝子は、歴代の御台所が夫ともども芝・増上寺や上野・寛永寺ではなく、義姉の千姫・初姫が眠る将軍一族ゆかりの寺・小石川伝通院に埋葬されます。

将軍家綱は母親として喪に服したかったようですが、家光が養子縁組を許可しなかったため、喪に服すことが出来なかったといいます。

側室:お振の方(自証院)

蒲生氏の家臣・岡吉右衛門の娘・お振の方は、史実の上では家光の最初の側室となりました。なんと石田三成のひ孫!(父方の岡家に石田三成の娘が嫁いでいる)にあたる女性です。

お振の母方の祖母・祖心尼は春日局の親族であったことから、大奥に出入りしていました。

当時の春日局の悩みと言えば、将軍・家光がもっぱら男色に励み、女性と関係を結ぼうとしないこと―その悩みを解消すべく、送り込まれたのがお振でした。

お振は当時10代前半、成熟した女性というよりはまだまだ少女でした。祖母、そして春日局の意向を受けたお振は、家光の関心をひくため、少年の恰好を近づいた、なんて俗説もあります。

女女していないお振は、家光の関心を無事に引くことが出来ました。しかも運が良いことに、すぐに家光の子を妊娠します。

春日局は後継者誕生を祈願したことでしょう。

時が満ちて生まれたのは女児でした。春日局はがっくりきたでしょうが、家光は千代姫と名づけたこの女児を非常に鍾愛したといいます。

そして母親のお振ですが―まだ成長しきっていない体での出産がお振に与えたダメージは甚大なものでした。

彼女は3年後、産褥から回復することなく亡くなっています。

お振の産んだ娘・千代姫はのちに尾張藩主徳川光友に嫁ぎ、正室として4人の子を産みました。

家光の男系はことごとく断絶していますが、この千代姫のみが唯一、家光の血を現代までつないでいます。

側室:お万の方(永光院)

公家の六条有純の娘で、母方からは戸田氏の血をひく、由緒正しい生まれの女性です。子を産むことはありませんでしたが、家光の寵愛篤く、春日局死去後は大奥を取り仕切ったといいます。

詳しいことはこちらから

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側室:お楽の方(宝樹院・元の名前は「お蘭の方」)

家光の跡継ぎ・家綱の母親となったのは側室・お楽の方でした。

お振、お万と徐々に女性を近づけるようになっていた家光はある日、呉服の間の女中たちが歌を歌いあっているのを耳にします。

そんな中、聞き慣れない歌を耳にした家光。初めて聞いた歌ですが、節回しやらなにやらをひどく気に入ってしまいました。

家光は女中たちの前に姿を現すと、その歌を歌っていた娘を見初めて、側室にしたといいます。

それがお楽の方でした。

お楽の方は時代が時代なら、とうてい家光と結ばれるはずもない人生でした。もともとは農民の娘ですが、実父は犯罪をおかして死罪になっているのです。

しかし、大奥に集められる女性たちは出自を問題にされることはありません。

その美貌で人目を引いたお楽の方は、街を歩いていた春日局の目にとまり大奥入り、そしてとうとう家光の側室となり、家光の後継者を見事に生んでみせました。

ちなみにお楽のおかげで、お楽の弟たちは大名や旗本に取り立てられ、妹も高家に嫁ぐなどしました。

父の死罪以後、沈みがちだった一族を引き立てることが出来て、お楽も満足だったのではないでしょうか?

そんなお楽ですが、家光の死後1年ほどで若くして亡くなっています。将軍生母というのは大奥における権力者ですが、彼女自身はあまり権力を振るう機会もなかったようです。

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側室:おまさの方(まさの局とも)

家光の側室と言うと、おそらく桂昌院(お玉の方)やお万の方、お楽の方あたりが有名でしょうか。

しかし、家光は結構多くの女性を側室にしており、その側室の一人に「おまさの方」がいます。

彼女は尾張藩附家老、犬山藩主の成瀬家の一族の出だといいます。出自だけでいったら、お楽の方とは比べ物にならないほど上流階級ですね。

おまさの方は春日局の部屋子だったそうですが、家光に見初められて側室にあがり、家光の次男(三男とも)・亀松を産んだといいます。しかし亀松は幼くして夭折しました。

おまさの方がどうなったのかは分かりません。家光より先に死んだのか、後に死んだのか。どこに埋葬されたのか。何一つ記録は残っていません。

大奥は将軍の子を残すための制度―そのため、将軍の子を残すことのできなかった女性に対しては、あまり記録を残すこともなかったのかもしれませんね。

側室:お夏の方(順性院)

彼女もお楽同様に身分の低い出身でした。父は「弥市郎」という京の町人でした。

お夏は、鷹司孝子の下女として江戸に上がります。その後、お夏は湯殿係に任命されます。この湯殿、実はなかなか曲者。

むわっとする熱気の中、薄い着物を身にまとった美女がお風呂の世話をする―何もおこらないわけがありませんね?(ちなみに、八代将軍吉宗も同じように湯殿係を務めていた女性から生まれたという俗説があります、当時は割とポピュラーだったのかも……。)

当然ながらお夏は寵愛を受け妊娠するのですが、実はこの時、家光は厄年でした。

父親の厄の影響を受けてはいけない、ということで、家光はお夏を姉の千姫のもとに預けました。そのまま千姫の元で夏は家光の次男(三男説あり)・綱重を産みます。

お夏はそのまま、綱重ともども千姫のもとに預けられていたようです。家光の死後は出家し、五代将軍綱吉の時代に亡くなりました。

お夏の子・綱重は異母兄・家綱や異母弟・綱吉とは異なり、将軍位を継ぐことはありませんでした。

しかし、綱重の子・綱豊は子のいない五代将軍綱吉の養子・家宣として将軍位を継承しました。

側室:お玉の方(桂昌院)

「玉の輿」という言葉の語源になった!とも言われる女性ですね。

京の八百屋の娘……なんて言われていますが、実際には摂家の二条家の家司(家臣)である本庄宗正の娘だと言われていますから、身分はそれなりに良かったようです。

ただ実は、本庄家の娘ではなく、本庄家が美貌の町人の娘を養女としたのだ!という説もあるそうで……。

いろいろな噂(ようは妬み)が出るほど、彼女の権勢がすごかったのだろうと思います。

彼女は家光の四男、言わずと知れた犬公方・五代将軍綱吉の母親です。

お夏の方は鷹司孝子の下女でしたが、彼女は公家出身の家光の側室・お万の方の部屋子だったといいます。

その後、お万の方の元から春日局の管轄下へと動き、将軍付きお中臈、そして側室へと順調にステップアップします。

家光の死去後は尼となり、息子・綱吉と穏やかな生活を送っていたのですが―そこにまさかの息子・綱吉の将軍即位です。

彼女は綱吉の即位後、大奥に入り、大奥の権力者としてふるまいます。

女性の最高位・従一位に叙されるなど、将軍生母として権力を謳歌しまくった後、息子・綱吉に看取られて亡くなっています。

息子・綱吉に後継者となる子がいないなどといった悩みはあったでしょうが、息子に敬愛され、おおむね幸せな一生を送ったのではないでしょうか。

側室:お里佐の方(定光院)

出自は不明ですが、一説には朝廷に仕えていた青木直辰なる人物の娘とも。

家光は京女が好きだったんでしょうかね?側室の半分以上が見事に京ゆかりの人物です。

彼女はお夏の方同様に、中の丸様こと鷹司孝子に仕える女性でした。ひょんなことから将軍・家光に見初められ、側室に上がります。

彼女は家光の最後の異なる五男・鶴松を産みましたが、鶴松は2歳になる前に亡くなってしまいます。さらに、そのわずか3年後には夫・家光も亡くなってしまいました。

お里佐の方は家光の死後出家します。おそらく、亡き息子・鶴松と夫の菩提を必死に弔う毎日だったのではないでしょうか。

四代将軍家綱の時代、延宝二(1674)年に亡くなっています。葬られたのはかつての夫の側近・祖心尼肝いりの寺院・済松寺でした。

側室:お琴の方(芳心院)

おそらく、家光の側室に「お琴」なる女性がいたことを知る人はほとんどいないのでは?と思うくらい、あまり言及されることのない側室です。

子供がいないことも影響しているのでしょうかね。

彼女は牛込榎町の徳円寺住職の娘として慶長十九(1614)年に生まれたと伝わります。

家光の側室は京女ばかり……と前に述べましたが、ここにきてお琴の方はちゃきちゃきの江戸っ子ですね。

彼女は寛永十八(1641)年ころに大奥に上がり、家光に見初められて側室になったといいます。

20代後半で(おそらく)独身で、大奥にあがるってちょっと珍しいような……。

もしかしたら大奥に上がる前に結婚していたなんてこともあるんですかね??それとも単に男性と縁がなかっただけでしょうか……。

彼女は家光に約10年ほど、側室として仕えました。

家光の死後は出家し、五代将軍綱吉の時代・元禄年間に亡くなっています。

ちなみにお琴の方の墓所がどこにあるかは分かっていませんが、一説にはお里佐の方と同じく、済松寺に葬られていたのでは?とも。

もしかしたらこの二人は側室同士でも、それなりに交流もあったのかもしれませんね。

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